7.ユーゴスラビア   

ユーゴスラビアは「南のスラブ人の国」という意味である。第二次大戦後、北から、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国を強引にまとめて1つの連邦社会主義国家を作った。3つの言葉が話され、3つの宗教が信じられ、2つの文字が書かれる。こんな人工的な国家が長持ちするはずがなく、1992年にユーゴスラビアは6つの独立国に分裂してしまった。当時、国の面積は26万平方キロで日本の4分の3、人口は2300万人である。通貨は1種類で、1ディナール=0.06ドルで約18円であった。

強い地方分権、北にいくほど豊か。
ヴィンヤードからコーンフィールド。
スカーフ、スカート姿の農夫。
東西の交通要所、数多くの戦争の場
品数の少ないショップ・ウィンドウ

以上がメモである。北にいくほど豊かなのはこの国だけではない。イタリアでも見たし、ギリシャでもそうだった。気候温暖な地中海地方のほうが内陸よりも貧しいというのは皮肉である。南は乾きすぎているのか。あるいは西ヨーロパ文化より遠ざかっているからか。

ユーゴスラビアを南から縦断したことになるが市内観光は1日ベオグラードを見ただけだった。仙台から下関までの距離を3日で通り過ぎたわけで、殆どがバスのなかであった。27日目にマケドニアのスコピエを通り、ベオグラードへ移動した。
翌28日目はベオグラードの市内観光である。ケルト人によって築かれたカレメグダンの城塞の丘に立つと、眼下にドナウ川とサバ川が合流してたゆらに流れていた。ベオグラードで撮った写真はその場所1ヶ所のみである。町の歴史は紀元前3世紀のケルト人の集落まで溯るがその後、ローマ、ビザンチン、トルコ、オーストリア、ドイツの支配を経て、第二次大戦でソ連により解放された。セルビア語で「白い町」を意味するベオグラードは多くの戦禍にあって建物は新しい。みやげに刺繍入りの革靴の形をしたピンクッションと、赤基調の織物ベルト、上着は地味であるが手の込んだ織物のプリーツスカートをはいた人形を買った。

さらに北上してクロアチアの首都ザグレブを通り29日目の夜はスロヴェニア共和国の首都ルブリャーナである。道中は田園、ぶどう畑、コーン畑の連続であった。
この町も2000年の歴史を持つ古い町である。アルプスの南側にあり、オーストリアの支配下にもあったため、スラブの国でありながら西ヨーロッパの香りが漂うバロック風の美しい街で、ハイデルベルグやフローレンスで見た、きれいな茶色瓦の屋根並みが印象的であった。


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8.オーストリア   

オーストリアは面積8万平方キロあまりで北海道よりやや大きい程度であるが、それでもスイスやオランダの倍はある。人口は750万人。1シリングは17円でほぼディナールと等価である。ヨーロッパのほぼ中央にあって、当時は時計回りの順に、ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、イタリア、スイス、リヒテンシュタインと7つの国に囲まれていた。今はチェコとスロヴァキアに分かれて8ヶ国となり、ユーゴスラヴィアはスロヴェニアに入れ替わった。

スイスと良く似た国土、ワイン、ペイストリー
親切な人々
サライエボ事件、ヒットラーの生地
トルコの侵入

国土はスイスとよく似ているが人々は正反対とでもいいたそうなメモになっている。同じアルプスの隣国でありながらこの対照は興味を引く。

30日目、リュブリャーナからロイブル峠を越えてオーストリアに入ったところ、
クラーゲンフルトでランチをとった。そこに世界の有名な建物のミニチュアを集めた楽しい公園がある。ミニチュアといっても低くて大人の背ほどもあり、エッフェル塔は周囲の本物の木々よりも高い立派なものである。日本を代表していたのは堀をめぐらした大阪城であった。

他には、ロンドンのホワイト・タワー、フィラデルフィアのインデペンデンス・ホール、ニューヨークの自由の女神、ワシントンのホワイト・ハウス、パリの凱旋門、ウィーンの大観覧車、ピサの斜塔、ベルリンのブランデンブルク門、イスタンプールのブルー・モスク、インドのタージ・マハール等など。 知らないものもいっぱいある。建物の間を川が流れ、池には帆船が浮かび、花を縫うようにミニ電車が走っている。2時間世界一周の旅といったところである。全部の建物を1つ1つ撮っておけばよかった。

そこから北にすこし行くと
ホショステルリッツという古城が丘の上に立っている。急な石段を登ってみると小ぶりながら崩れたところがない、彦根城のような整った中世の小城であった。

バスにもどって当日の宿泊地である小村、
ペンクの民家に泊る。スイスで見た木造のホテルと同様、どの家も例外なく2階、3階の木枠のベランダに木製プランターを並べ、ゼラニウムやベゴニアの花で飾っている。宿の人々はみなオーストリアの民族衣装を着ている。

男の衣装が女のそれよりもきれいな国は少ないのではないか。女性は洗濯したての白いブラウスに黒のギャザスカート、その上に裾をスカート丈にあわせたゆったりとしたエプロンを掛けている。靴下は白である。地味で働き者の女性という感じがする。

一方、男は羽飾りのチロリアン・ハットをかぶり、ニッカーボッカーズのアルペンスタイルで、ベルトにはエーデルワイスなどのアルプス花の刺繍を楽しそうにつけ、家庭では仕事をしないとでも宣言しているようで粋にすましている。土産にカウベル付きのナプキン立て、それにミュジック・テープと地味な人形を買った。

31日目はオーストリアの最高峰
グロスグロックナー(3798m)がそびえるアルプスを越える。オーストリアの南北を結ぶ48kmのこの登山道路は近代的で美しいく、自然公園を設けてアルプスに棲息する動物や高山植物の観光にも配慮が行き届いている。道路沿いには数多くの駐車場が準備され、展望の開けたところにはレストランやホテルが待っている。なかでも一番の人気スポットはフランツ・ジョゼフ展望台で、足元に30平方キロに及ぶ雄大なパスツェルツェ氷河の展望が広がっている。幅1kmとすると長さ30kmということである。氷の上に立って氷河の上流を目でたどっていくと標高3460mのヨハネスベルグ山の峰に続いている。富士山頂から山中湖まで氷の大河で結ばれていると考えてもよい。

ホシュトール峠を越え登山道路に別れを告げるとモーツアルトの町に着く。


ザルツブルグ

32日目はモーツアルトの生地、「サウンド・オヴ・ミュージック」の町、ザルツブルグにいる。ザルツブルグとは英語でソールト・シティ、つまり塩の町の意味である。町の中を塩の川、ザルツァッハが流れ、その南側が旧市街でドーム(フローレンスではドゥオモといった)という大寺院、ホーエンザルツブルグ城、その裏の岩山にあるノンベルク尼僧院など殆どのものがそこにある。その尼僧院はジュリー・アンドリュース扮するマリアが、祈りの時間に遅刻する常習犯であった場所である。ゲトライデ通りは繁華街でその9番地がモーツアルトの生家である。モーツアルトの父レオポルトは18世紀の半ば26年間をそこで過ごした。その9年目に当たる1756年の1月27日にモーツアルトが生まれている。

300年前の馬の水飲み場が名所だというので行ってみた。西部映画に出てくるランチの水飲み場くらいのイメージしかなかった私は、そして恐らくテキサスからきていたダイアンやメリーなどは私以上に、驚いてしまった。丘を背にして、屏風のような、大理石の巨大な壁がある。彫刻を施した石柱のあいだは襖絵ならぬ馬を描いたフレスコ画である。その中央に後ろ足で立つ馬の像があり、その前は石手摺りに囲まれた噴水になっていた。ここで司教の厩の馬に行水をさせたのだという。今から300年前、徳川将軍の馬はどんな所で洗ってもらっていたのか知らないが、西洋文明の神髄をみた思いがした。

午後は南10キロの郊外にある
ヘルブルン宮殿へ出かけていった。ヘルブルン宮殿は1615年に建てられた大司教の夏の離宮で、よく手入れされた庭に大小多くの噴水プールがある。宮殿の一部は洞窟になっていて、内部には小さな彫刻や陶器の人形などで飾られ、可能な限りの水仕掛けが組まれている。広い庭にもふんだんの石やプールや噴水がある。パリやイタリアの各地で見た宮殿と違って、歴史の知識がなくても安心して楽しめるのが気に入った。

日程表にはそこでウォーター・ゲームを楽しむとあるのだが、ちょび髭のリーダーはどんなゲームなのかを言わなかった。庭の1つに円形と方形のプールがつながっていて、その奥に石のベンチとテーブルが用意されている。そのテーブルを囲うようにローマ時代の半円劇場のような石段とローマ将軍の彫刻像が立つ華麗な石壁が庭の奥をふさいでいた。

午後のプログラムはここだけなので、皆のんびりと怠惰な夏の午後をむさぼっているとき、突然、石のベンチに座っていた連中から悲鳴があがり、それはすぐさま大笑いに変わった。ベンチの中央から水が飛び出す仕掛けになっていたのだ。ズボンをはいたままウォッシュレットを使ったような感じにさせる魂胆である。その結果、一部の者だけが濡れたズボンをはいていることになって、おもらしをした気分を思い出させた。

夜はドレスアップしてコンサートに行くことになっていた。毎年世界中の一流音楽家が集うザルツブルグ音楽祭ではない。小さな部屋でのハープとヴァイオリンの二重奏であった。プログラムには――1967年7月1日21時、ザルツブルグ・シュロス・コンサート――とある。場所は新市街にあるミラベル宮殿のマルモア・ザールの間で、かってはモーツアルト一家が演奏したホールである。

休憩を挟んでソナタやノクチューンなど計6曲、全部私の知らない曲ばかりであった。そのころはまだクラシック音楽の趣味を始めていなくて、私には肩の凝る退屈な音楽という印象しかなく、その夜のコンサートも新しい刺激にはならなかった。私は知っている曲しか楽しめない。知らない曲は身につかないので、いつまで経っても知っている曲が増えないでいる。

33日目の午前は、すぐ隣の国境を越えてドイツ南端にある
バーテスガーデンの岩塩鉱山の見学であった。この地域の地中には岩塩鉱脈が走っているらしい。私たちの訪問は理科教室の見学ではなくて、楽しいことをすることに目的がある。全員つばなしの黒の帽子に黒の上着、そして白のモンペという昔の坑夫の姿に身を変えて、動物園のサル電車のような乗り物にまたがって下に降りる。途中からは1人ずつサルスベリの木のように滑らかな木の幹にまたがって滑り降りるのである。小学校で階段の手すりを滑り降りた要領である。廃坑になっているここでの楽しみはこのスベリ木であった。

午後はヴィエナへ移動する。途中
ザルツカンマーグートという風光明媚な高原地帯を抜ける。氷河に削り取られた跡が湖となって、湖畔の町は「サウンド・オヴ・ミュージック」の舞台になったところである。フッシュル湖やモント湖の傍を通って行く。モント湖の西端にあるモントゼの町の教会で、マリアとトラップ大佐が結婚式を挙げた。マリアがカーテンをひきちぎって作ったお揃いの服を着て木に登ってはしゃぐ子供たち、初めてのボート遊びで転覆してずぶ濡れになって大佐にしかられるマリアと子供たち、みんなこの辺りの話しである。


ウィーン(ヴィエナ)

34日目、マリア・テレシアと音楽の都、この旅行の主催者「ヨーロッパ・イクスポーレーション」の本部、第三の男の町、ウィーンである。人口160万人、オーストリアのほぼ東端、ハンガリーに近い。ドナウ川が流れウィーンの森と丘に囲まれて、ハプスブルグ家の栄光に包まれたマリア・テレシアは16人の子を産んだ。主婦と仕事は両立しないなどと彼女は言わなかった。

ユーゴスラヴィアからザルツブルグに来る途中、クラーゲンフルトでみたミニチュアの世界最大の大回転観覧車の本物がここにあった。貨車ほどに大きな15人乗りのゴンドラがのんびりと回っている。最近東京にもロンドンにも大物ができたようで、大観覧車の現在の世界ランキングは知らないが当時は直径64mのウィーンのそれが世界一と言われていた。

映画「第三の男」でオーソン・ウェルズとかっての親友ジョセフ・コットンがプラター遊園地の観覧車の前で出会う。陰影のコントラストを最大限に強調したカメラワークが強烈な印象を与える。
アリダ・ヴァリが晩秋の枯れ木の並木を毅然とカメラに向って歩いてくるラストシーンはウィーンの中央墓地の並木道だった。チターの音色とともにこの映画のもつ精練された白黒映画の美しさを忘れることはできない。

古典音楽を代名詞に持つこのウィーンの古典派3大音楽家とはハイドン、モーツアルト、ベートーベンである。あとの2人だけで私が知っているクラッシック曲の半分を占める。モーツアルトはウィーンで貧困のうちに35歳の短い生涯を閉じた。埋葬当日は雨の降る寒い日で、誰も付き添わなかったので埋葬場所ははっきりしていないらしい。「アマデウス」の最後の方にその寒々とした哀れな場面がある。中央墓地の一角には音楽家の墓が集まっており、ベートーベン、ブラームス、シューベルト、ヨハン・シュトラウス父子、ズッペ、グルックなどがいるがモーツアルトはいない。市立公園には大理石のアーチの中でヴァイオリンを弾くヨハン・シュトラウスの像のほか、シューベルトやブルックナーの像もあった。

日差しが緩んだ頃、シュトラウスのワルツコンサートに出かけた。ギャラリーが見下ろす中、列に並んだ男女が音楽に合わせて華麗なワルツの舞いを披露する。宮廷舞踏会の再現であった。はしゃぐようで整然としていて、浮き立つようで華麗である。古典音楽に親しんでいた当時の一部の教養人は、新流行のシュトラウスのワルツに眉をひそめたそうである。私が、息子が買ってくるCDの曲に顔をしかめるのと、次元は違うがよく似たものではないかと思ったりしている。しかしヴィエナの上流階級は夜な夜なこのワルツの軽さに酔いしれていた。

35日目は終日自由行動でランチ代をもらって、読めないドイツ語の地図を手に市内を歩きまわる。パリの自由日を思い出したが町が小さいぶんだけましである。ちょび髭リーダーは自分の下宿かウィーン大学の本部にでも帰っていたのか。

シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の夏の離宮で、もとは狩猟の館であったことはブルボン家のヴェルサイユ宮殿に相当する。外部はバロック、内部はロココ風の華麗な内装や豪華な調度品が惜しみなく飾られている。部屋の数は1400もあるといわれておりそのうち45室が公開されている。モーツアルトが6歳の時マリア・テレシアの前でピアノを弾いたという部屋もある。1815年のウィーン会議ではこの宮殿でが外交そっちのけで舞踏会ばかりやって世間から「会議は踊る」と皮肉られた。

ホーフブルクはハプスブルグ家の居城で、王宮のほかに古いミヒャエル教会、ウィーン少年合唱団が歌うブルグ礼拝堂、白馬をワルツに合わせて行進させるスペイン式馬術学校などを含む一大コンプレックスである。近くに我らがリーダーが哲学を学なんでいるウィーン大学がある。1365年の創立でドイツ語圏ではチェコのプラハ大学についで古い名門である。

繁華街を歩くのも楽しい。窓には女性の欲しそうな土産品が豊富に並んでいる。ウィンナー・コーヒーとペイストリーは世界的に有名で、本場の味を試さずに帰るわけにはいかない。コーヒーは17世紀ウィーンを包囲したトルコ軍によってもたらされた。ペイストリーはもって帰れないので妻はそのレシピが書いてある本を買った。プチ・ポワンといわれる繊細な刺繍ものも人気がある。妻はそのブローチを買った。今明子が持っている。私はチロリアン・ハットを買いたかったが、高いのであきらめた。

夜はホイリゲ・パーティに参加するためグリンツィングに繰り出す。ホイリゲは新ワインのこと、日本人が好きなボージョーレ・ヌーヴォである。各ヴィンヤードでは収穫を祝って、ワインと歌の盛大な祭りが繰りひろげられる。軒先に松の木の小枝をかざしているところが「ホイリゲあります」のワインケラーといわれる居酒屋である。我々一行もその1つになだれ込んでバイオリンやアコーディオンの楽士が雰囲気を盛り上げる中、中庭の木のベンチとテーブルを囲んでオーストリア・ワインを多いに愛でた。ちょび髭のリーダーは自宅に帰ってきたようなくつろぎようであった。

くつろぎや楽しさという意味では、オーストリアはイタリアに伍する。国土の美しさ、国の豊かさ、音楽、民度という点も考慮にいれると、イタリアに勝る。その分物価は高かった。

音楽を除いて、国の美しさ、豊かさ、民度の高さはスイスと同じであるのに、スイスにくつろぎや楽しさ、あるいは華やかさがなかったのはなぜだろうか。スイスには宮廷文化がなかったことと宗教改革があったことしか思いつかない。それはまた、もうすぐ行くドイツについても当てはまる。

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9.チェコスロヴァキア

36日目、バスはヴィエナからチェコスロヴァキアへ向かう。国境で、少年のような幼い顔をした官憲が、バスに乗り込んできて1人1人のパスポートをチェックした。彼らの表情に明るさがないのが気になった。彼らは、本当は我々と一緒に旅行をしたかったのだと思う。

チェコスロヴァキアは面積13万平方キロでギリシャとほぼ等しい。ここは南北とはいかないが、西のチェコが豊かで東のスロヴァキアが貧しい。チェコは東欧の優等生であった。農業国のスロヴァキアと工業化が進んでいたチェコの分裂は自然の流れであったろう。民族も、宗教もちがう。ユーゴスラヴィアと同じで、一緒にしたのが無理だった。チェコとスロヴァキアは1993年、別の国として歩むことになった。


ビール…・バッドワイザーの故郷、あくの強いビール
ミニスカート
水着姿で働く女性―労働奉仕で働く女学生か
貧弱なショーウィンドウの品物

通貨はコルナといって1コルナ=0.1ドルで約30円であるが、闇市場があって実勢は分からない。観光客に寄り添ってくる闇の両替人が当たり前の光景になっている。ドルが不足しているのだ。あるいは西欧やアメリかからの輸入品がべらぼうに高いのであろう。

ビールの話

チェコ共和国の国民は世界で一番ビールが好きな人達である。1998年の統計では国民1人あたり年間161リットルのビールを飲むという。1日平均約0.4リットルである。子供や病人、老人、女性を考慮して、仮に飲酒人口が全国民の3分の1だとすると、飲む人は毎日平均大びん2本飲む計算になる。2位はやはり酒の好きだった聖パトリックの母国アイルランドで、1人あたり年間151リットル、アメリカ人は13位でチェコ人の約半分となっている。日本は23位で57リットル、チェコと同じ想定をするとビールを飲む人は毎日平均約中びん1本となって私の場合に合致する。実はチェコとスロヴァキアが分かれるまでは2番であったが、年間平均85リットルしか飲まないスロヴァキア人と別れたおかげで、チェコはアイルランドを抜いて世界一の名誉に輝いた。

なお国別の年間ビール消費量でいえば、1位がアメリカの226億リットルで東京ドーム18杯分のビールを飲む。2位は中国で196億、3位がドイツの105億、日本は健闘して第5位につけ1年で東京ドーム6杯近くのビールを飲んでいる。

この国にバッドワイズという町がある。この町は13世紀、ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世によってビールをつくるために建設された。数世紀にわたりバッドワイズの町はビール製造の特権を与えられ、16世紀半ば、国王フェルディナント1世はバッドワイザーを王宮御用達に指定する。バッドワイズは「ビールの町」として知られるようになった。近代にはいり1895年に株式会社としてバッドワイザー・バッドヴァーが設立され、バッドワイザーは世界のブランドとなる。

一方でその20年前、セントルイスで同じ名前のビールを造っている男がいた。その会社の名前をアンハウザー・ブッシュという。現在、国営会社となっているバッドワイザー・バッドヴァーとアンハウザー・ブッシュの2社は今も世界各地でバッドワイザーという商標権をめぐって長い法廷闘争を繰り広げている。すべてはバッドワイズというボヘミアの古い町のせいである。



プラハ(プラーグ)

37日目、「黄金の町」プラハを見る。かつてはボヘミア王国の首都、近くは神聖ローマ帝国の首都、そして現在はチェコ共和国の首都である。1968年、ドプチェクによってもたらされたプラハの春は、ソヴィエトの侵入で桜の花のようにはかなく散って、国民から笑顔が消えた。1964年の東京オリンピックの花、チャフラフスカの大人のあでやかな笑みが忘れられないが、彼女の笑顔もわずか4年後には絶えてしまったのである。国のいさかいはむごい。

1989年の12月、ビロード革命で共産党政権は倒壊し国民に再び笑顔が戻った。いま訪れたならば国民の表情のちがいに歴史の大きさを感じることであろう。私たちが訪れた1976年はちょうどほぼその中間の時期にあたる。うらびれた都会という雰囲気で、人々の表情にはひとかけらの活気も見られなかった。

本来プラハの宝石であるはずの古い街並みは、それを誇りにしようとする意欲さえもなくした人々のなかにあってはただ古いだけの遺物にみえて、町の空気をいっそう重苦しいものにしていた。繁華街と思われるところではもの乞いが近寄ってきた。みやげ品を求めて入った百貨店は閑散としていて、閉鎖直前の店のように品の数が少なかった。店員はサービス精神というものなど持ち合わせていないふうで、時間が経つのを待つのが仕事のようであった。土産に買った人形だけが愛くるしい大きな目をした顔をしていて、なぜか救われた気になったものである。

ランチのために立ち寄ったレストランのウェイトレスはアテネのプラカで私に声をかけてきた娼婦のように短いミニスカートをはいていた。彼女らだけではなくて街でみかける地元の若い女性のほとんどがそうである。日本にツイギーがやってきてミニスカートの大ブームが起こったのはちょうど10年前のことである。ひざ丈のスカートが標準であるパリやロンドンの若い女性との差異は、イデオロギーの裏返しなのか、あるいは単なる流行のタイム・ラグなのか、あとあとまで気になった。メモにあった、水着姿の働く女性はどこで目撃したのか、妻と一緒に記憶を必死にたどったが思い出せない。水着姿もミニスカートファッションも、暗い印象の共産主義国の街に現れた突然変異に思えてしかたなかった。

プラハは
「百塔の街」「中世の宝石」などと呼ばれ、中世以来の街並みを残し、11‐13世紀のロマネスク、13‐15世紀のゴシック、16世紀のルネサンス、そして17、18世紀のバロックと、あらゆる様式の建築を揃えた大変美しい町である。第二次大戦でたいした被害を蒙らなかったことがこの町の魅力を昔のままに保存していて、現代の建物を探すほうが難しい。几帳面に敷き詰めた古い石畳の道と、迷路のような小路を辿っていると中世の町に迷い込んだかのような錯覚におちいりそうである。
その文化も高く、カフカ、リルケなどの文学者、スメタナ、ドヴォルザークなどの音楽家を生んだ。毎年5月12日、スメタナの命日から開催される音楽祭「プラハの春」は、ザルツブルグの音楽祭に劣らない国際的なイベントになっている。

高校音楽部時代、ボヘミア民謡が好きだった。南イタリアの民謡のようにテンポの早い高音のソロとは対照的に、ボヘミア民謡の「霜の旦」(僧院の庭)はゆったりとしていてどこか哀愁を帯び、私の音域にもあっていてコーラス向きの歌であった。ラテンとスラヴの対照といってもよい。ドボルザークの「家路」は、「新世界より」の癒しの第2楽章ラルゴよりも、キャンプファイヤーの思い出と不可分の関係にある。その曲にも底流にはボヘミア民謡の郷愁に通じるところがあるのではないか。スメタナの交響詩「我が祖国」の中で謳われているヴルタヴァ(モルダウ)の調べも、滔々たる川の流れのなかに秘められた郷愁がある。

チェコの黄金時代は14世紀のカレル(チャールズ)4世が神聖ローマ皇帝になった時代である。ヴルタヴァ川の西側の丘に立つプラハ城はカレル4世が築いたもので、今は大統領の官邸のほか国立美術館などがある。ここから見晴らすプラハの街並みはハイデルベルグやフローレンスよりも素晴らしかった。プラハ城の真中に聖ビート大聖堂があり、ゴシック・ルネサンス・バロック様式の影響を受けた複雑な姿になっている。10世紀に建てられたとう古い聖イジー教会をぬけて坂を下りると16世紀の小さな家が並ぶ
「黄金小路」にでる。城に召し抱えられた錬金術師たちが技と智恵を競い合っていたところである。

ヴルタヴァ川の東西を結ぶカレル橋は1357年に架けられた中欧最古の石橋で、両端にはゴシック様式の門がついて、左右の欄干には聖像が15体ずつ飾られている。木目細かに敷き詰められた石畳の歩道は歩くのに心地よい。東岸から橋を前景にして、遠方にプラハ城を望む風景はこの町一番の撮影スポットである。

旧市街広場は観光客の溜まり場で、とくに毎時10分前頃になると観光客は広場の一角に建つ旧市庁舎の前に集まって、そこの時計が時報を知らせるのを待つのである。文字盤は青と赤茶色の円模様で、3種類の時計文字が配されている。この時計のデザインをみるだけでも楽しいが、分針が垂直に立つと上に設けられた窓があいて死神の鈴の音とともにキリストの12使徒が現れ出て時を告げるからくりが仕掛けられている。美しくて楽しい時計で、私はプラハの町ではこれが一番気に入った。

夜はチェコのフォークダンスを見ながらの食事であった。黒ビールのように苦い国産ビールを味わったがロンドンのビターよりもビター(苦い)であった。食事の後は観劇としゃれこむ。プログラムには
「ラテルナ・マギカ(マジック・ランタン)」という下に「国立劇場実験舞台」という副題がある。劇とバレー音楽を組みあわせたような奇妙なショーであった。カーニバルでの恋物語のような話しであったが、よくわからない。英・独・仏・露・チェックの5ヶ国語のプログラムをもらったのだが用を足さなかった。


テレジン(ナチス強制収容所)

次の38日目、私たちはプラハからドイツ国境の中間にあるテレジンの小さな要塞を訪ねて、歴史の暗黒部分を正視する時間をもつことになった。この要塞は北からの侵略にそなえてジョゼフ2世皇帝の時代、1780年に築造されたものであるが、19世紀からは要塞の役目をおえて軍隊の監獄として使われた。1939年3月15日、ボヘミアとモラヴィアを占領したナチスは1年後この要塞を強制収容所に変えてしまった。1941年早々に、最初の1500人の囚人が改装なった獄舎に到着して以降、1945年の5月まで4年余りにわたって、ユダヤ人のみならずロシア人、チェコの共産主義者、ジプシーなど何万人もの命がここで抹殺されたのである。

ナチスが手を広げた欧州の地域には、900万のユダヤ人が住んでいた。その人口は1945年には300万になったといわれている。3人に2人がナチスの手によって抹殺されたことになる。ホロコーストという世界史最大の汚点は永久に消えることがない。日本人が原爆の悲劇を忘れることができないように、ユダヤ人はホロコーストの狂気を人類の歴史から忘れさせることはできないのだ。当然のことであろう。チャップリン演じるヒットラーが、風船の地球儀と戯れる「独裁者」の一場面は、喜劇とはいえ見る者の背筋を寒くさせる。

3段ベッドの並ぶ獄舎、独房、料理場、理髪室、プール、ひもがぶら下がったままの絞首台、一列にならばされて射殺されたという処刑場、そして墓場。チェコの人達はこのちいさな要塞を、4度目的を変えて守りつづけているのである。

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10.ドイツ

当時西と東は別の世界であった。西は面積25万平方キロでイギリスとほぼ同じである。東は11万平方キロで、西ドイツの半分もない。しかし東ドイツはほぼ中央にベルリンという大都会をもっており、西ドイツの一部の国民はそこでの飛び地生活を強いられていたのである。今東西の壁は撤去されベルリンは統一ドイツの首都となった。
当時西ドイツの1マルクは0.4ドルで約120円であった。


無愛想な人々、男性的女性。
ゲーテ…フランクフルト、 ベートーベン…ボン

という比較的簡単なメモになっている。無愛想というコメントはスイスに次いで2回目である。プラハでの店員も無愛想ではあったが、そこは共産主義国に免じてメモには残さなかった。それに対してドイツは、スイスに並ぶ先進国で、多くの観光客が訪れてくる国であるにも拘わらずに、である。やはり地方分権と宗教改革のせいであろうか。

男性的女性とはつまりドイツの女性は魅力がないということであり、無愛想というのももっぱら女性に向けたコメントである。ドイツの女性は家庭の主婦としてはしっかりものでたくましく、ぜいたくもしなくて一流らしい。そういう女性はそもそも客商売には向いていないのだともいえる。

ベルリン

プラハから西ベルリンにいくには東ドイツの領土を通らなければならない。テレジンを後にして東ドイツ国境の検問を受ける。チェコに入ったときに受けた検問より恐かった。パスポートだけでなく、網棚の上や座席や足元までも調べていくのである。ここに来る直前、要領を心得ているベテランリーダーはみなに「週刊誌はバッグにしまうように」とアドバイスを与えた。チェコの若かった官憲とちがって、こちらは敵意がむき出しであったように思われた。イデオロギー上の敵意ではなくて、西側にたいする異常なライバル意識だったというほうが正しいかもしれない。 チェコの若者には、顔にださない羨望があったような気がしたのだが。

ドレスデンを通り抜け西ドイツの飛び地、西ベルリンへ入った。かってプロイセンの首都であった大都会は第二次大戦で徹底的にこわされた。勤勉実直なドイツ国民のせいではない。ヒットラーの狂気のせいである。

39日目は西ベルリンを見て回る。第二次大戦が終ってベルリンは米・英・仏・ソ連の連合国の管理下におかれ町は4つの占領地域に分割された。冷戦時代に突入した1949年、ドイツが東西に分裂すると同時にベルリンの町も2つに引き裂かれ、ベルリンの西側は東ドイツ領内に孤立してしまったのである。12年後の1961年、両ベルリンの間に冷たい壁が築かれ、人々の行き来はとざされた。私たちが見たベルリンの壁には自由を求めて壁を乗り越えようとして射殺された人達のための十字架が並んでいた。痛々しい黒ずんだ花輪のそばにはまだ新しいものもあった。私たちの旅のあとにも新しい花輪は増え続けたことであろう。その悲劇に終止符が打たれたのは13年後、1989年11月9日のことである。

ベルリンにはいたるところに第二次大戦で受けた空襲の爪痕が深く残っている。19世紀の末に建立されたカイザー・ウィルヘルム記念教会は空襲で焼きただれたままの姿で立っていたが、広島の原爆ドームに比べればよほど原型をとどめている。今まで見てきたヨーロッパの町にくらべ何か暗い雰囲気が漂い、隣の東ベルリンの監視塔からいつも見張られているようで浮かれた気分になれなかった。さらに印象を悪くしたことに食べ物のまずかったことがある。ソーセージは本場であるからわるくはなかったが、それだけであって、酸っぱくて刻んだゆでキャベツは食う気がしなかった。キャベツは生に限る。腹はジャガイモで満たした。

ベルリン市内には戦争関係以外にあまり見るところもなく、18世紀半ばに完成した選帝侯妃ゾフィ・シャルロッテの夏の離宮シャルロッテンブルク城くらいののもである。19世紀以前の文化や芸術を見て歩く所としては一番印象のうすい町であった。ベルリンは政治とビジネスの町であって、観光の町ではない。

40日目は歴史と政治の勉強にあてられた。午前、複雑な手続をへて壁の東側に入る。60マルクを強制的に交換させられたが、東ベルリンに買い物をするところなどなかった。重苦しい気分が町全体を支配している。バスに乗ってどこを見たのか記憶にない。東西の境界に18世紀ウィルヘルム2世のときに凱旋門としてたてられたブランデンブルク門がある。カメラは使わないようにいわれていたので私の仕事がなかった。

午後は西ベルリンにもどり市庁舎で上院議員と政治、経済についての講演会とその後の討論会が用意されていた。初めに「国家社会主義の原因‐プロパガンダによる大衆誘導」という堅苦しい映画をみせられた。大学生の旅行団体であるからそれもよかろう。ヒットラーの『わが闘争』からの引用文がテキストである。彼はドイツ労働者党に入いるや、まず最初にプロパガンダ部門を掌中に収めた。テキストの一部を意訳すると次のようなことである。

「大部分の国民は、外交官や法律学者のような理性的な人間ではなくて、懐疑と不安に満ちて何かに頼ろうとする単純な人間からなっている」
「プロパガンダの機能は、異なる人々の権利を考慮するのではなく、はじめから合意されるべく用意された、1つの権利を排他的に強調することである」
「プロパガンダは組織をつくるよりはるかにさきがけてなされねばならない。組織はそのあとに、なにか材料を与えて人が従属できる仕組みをつくればよい」

彼はゲルマン民族こそが世界で最も優秀な民族で、他の劣る民族は人類の進歩のためにはこの世から抹殺されねばならないという狂気のキャンペーンを開始した。1936年ナチス政権のもとで第11回オリンピックがこのベルリンで開催された。NHKアナウンサーの絶叫の中で前畑が200メートル平泳ぎで優勝したそのオリンピックである。ヒットラーは初めて聖火リレーを導入し、レニ・リーフェンシュタールという女性に記録映画をつくらせた。「民族の祭典」「美の祭典」という2部作である。ヒットラーにとっては「民族」とはゲルマン民族であり、「美」とはドイツ人の肉体美であった。プロパガンダの傑作となったこの映画は芸術的に優れていて、オリンピックの年になると皮肉にも国を越えて繰り返しテレビで放映される記録映画の古典的傑作となっている。
最近レニ・リーフェンシュタール女史が復活した。かってヒットラーの愛人ともいわれたこの才女は100歳を越えた今も映画作りに余念がない。(2003年9月8日、101歳で死去)

ヒットラーのプロパガンダに国民のみながのったわけではない。自分の政治的信条や良心を歪めることなく勇敢に独裁者に抵抗した人達もいた。当然のように死刑の宣告をうけて次々に断頭台の露と消えていったのであった。現在、未成年者矯正所になっている建物の一部はヒットラーが権力を握った1933年1月から1945年までの暗黒の12年間、これら反ナチス抵抗運動者1800名が処刑された場所で、プレツェンシー・メモリアルとして保存されている。建物の入口には石の大きなつぼが置かれていて、中には各所の強制収容所から採取した土が納められているという。チェコのテレジンでは名もない人々が死んでいったが、ここでは有名人や地位の高い人々が処刑され、内部の一室には彼等の写真や手紙などが展示されていた。処刑はギロチンによったこともテレジンとの違いである。

ヒットラーのプロパガンダの論理は一部の宗教にもあてはまる。
迷いと不安を持つ人達にねらいをつけること、まず教理という結論があって、異論をゆるさないこと、教祖とよばれるものは、世界宗教といわれているものもふくめて、まず説教と伝道があって、教団という組織は信者のために後からつくられた。歴史はこの教理という宗教的真理の名のもとに自殺、他殺を問わず、ナチスに劣らぬ血が流されたことを隠しはしない。

ヒットラーや教祖は大衆を集団催眠にかけ、大衆をマス・ヒステリアにおとしめる。この現象はそのもっと小さな規模で、アメリカのテレビで毎週見ることができる。大学教授のガウンのような衣装をつけた壇上の教祖のあとを、フロアの信者が一斉に唱和するのである。これを繰り返すと次第に自己催眠の麻酔が効いてくる。アメリカ大統領選挙の党大会でもこの手が使われる。「ウィ ウォント ビル!」とか「ウィ ウォント ジョージ!」とかさけぶのである。

日本人が、両手をあげて「万歳!」とか、左手を腰に当て右手のこぶしをつきあげて「頑張ろう!」とか繰り返す行動様式も似たようなものだ。日本は、オフィスという知的作業の場でもこれをやるのだからかなわない。

まじめな授業のあとはみなでベルリン動物園へ行った。なぜベルリンにきてまで動物園に行かねばならないのか。それほどに見るものがないという証拠であろう。

夜は西ベルリンの若者の溜まり場クドルフへ繰り出す。古臭いパブが地下に集まっている一角に、ダンスフロアーやレストランがひしめきあう。私たち一団はつれだってそのなかのリバーボートというディスコに入り込んだ。広い一室に3つのディスコフロアがあり若者の熱気でむせかえっている。ここには地元の人や観光客の区別はなく、ただ若さが漫然とぶつかりあっているエネルギーを感じるだけであった。

41日目は終日自由行動でレンブラントのコレクションで有名なダーレム美術館を見にいったあと、もっぱらクーダムとよばれる繁華街をうろうろして過ごした。土産はゾーリンゲンのアーミー・ナイフと散髪用の髪ばさみを買った。結婚いらい散髪は妻にしてもらっている。カットはまずまずだが散髪屋のように首にタオルを巻きつけないので体中毛だらけになるのが難点である。アーミー・ナイフは37マルク(4400円)、髪ばさみは28マルク(3400円)であった。

42日目はベルリンからコペンハーゲンへ移動する。東ドイツの農村地帯を北上し、バルト海に近いロストックを経てフェリーでローラン島に渡り、橋を越えてシェラン島に入る。

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11.デンマーク

デンマークはユトランド半島と500もの島からなるスイス、オランダとほぼ同じ(滋賀県の約10倍)小さな国である。ヨーロッパ最古の君主国で日本の皇室とも親しい。人魚姫、みにくいあひるの子、マッチ売の少女などの名作を残したアンデルセンはデンマーク王室の血を受け継いでいる。通貨はクローネで一クローネは0.18ドル、約55円である。

私のメモにはただ一言「ノー・チップ」とあるのみであった。勘定に含まれているので気をつかわなくてもよいということである。

コペンハーゲン

43日目は徒歩での市内観光である。首都コペンハーゲンの町は人口120万人で国の約4分の1がこの都市に集中している。コペンハーゲンは「商人の港」という意味で北海からバルト海への入口にあたり、海運と商業で栄えた。古くは北欧のヴァイキングの本拠地でもあった。清潔な落ち着いた町というのが私の第一印象であった。すべて英語で用が足り、教育水準の高さを感じさせる。旧市街は17世紀前半の時代、クリスチャン4世の独壇場である。

ストロイエとよばれる1km余りの繁華街は年中歩行者天国で、精練されたショーウィンドウには手作り家具、銀製品、毛皮、ニットのスカンジナヴィアン・セーター、そしてロイヤル・コペンハーゲンの陶磁器など、どちらかといえば値段のはるものばかりが豊富にならんでいる。学生が気軽に飛び込めそうな店がなかった。週末の東京の銀座通りを、幅を狭めてアスファルトをとりのぞいて石畳の小道とし、両側の建物の高さをそろえた明治風のレンガ造りにした感じであろうか。

港にはあせたクリーム色の壁の家並みが続いている。海岸の片隅のようなところの波打ち際に、岩の上に斜め座りをして悲しげに海を見つめている、思っていたより小柄の
人魚がいた。

アメリエンボー宮殿は4つのロココ様式の建物からなりその1つに女王マーガレーテ(マーガレット)2世が住んでいる。女王在宮のときは衛兵の交替式があり正午になると女王の部屋に向って高らかに音楽が演奏される。熊の毛皮の帽子といい、赤の上着といい、ロンドン、バッキンガム宮殿の衛兵とにている。王室の古さからいって衛兵の交替式のオリジナルはここではないだろうかと推測した。

国立博物館は土地柄を反映していて面白かった。パリ、ロンドン、ローマなどの博物館とは違って教科書に出てくるような歴史的遺品や発掘物などはひとつもなく、かわってグリーンランド(デンマーク人が発見、今もデンマーク領)のエスキモーやアメリカインディアン、バイキングの舟が主な展示品であった。アジアのコーナでは国別に部屋がしつらえていて日本は4室与えられていた。そのほかに、アフガニスタン、モンゴル、インド、チベット、中国、タイ、ビルマ、韓国と、几帳面に整理されている。

クリスチャンスボー宮殿は15世紀から18世紀の終わりまで王宮であったが、数回の戦争や火災にあって王宮はアメリエンボー宮殿に移された。再建されたクリスチャンスボー宮殿は現在国会議事堂となっている。ローゼンボー宮殿はルネッサンス様式の、クリスチャン4世の夏の離宮で、今は王室の財宝を保管する博物館である。

その他アンデルセン、キルケゴール などの著名人が眠るアシステンス墓地、クリスチャン4世が大学の天文台として建てたランウド・タワー、イエンス・オルセンの世界時計が展示されている市庁舎などを見て歩く。規模の小さな町で、レンタル自転車でまわる観光客が多かった。

夜は130年の歴史を誇る
チボリ公園で遊ぶ。ディズニーランドのような大規模な遊戯設備はないが野外音楽堂、パントマイム劇場、映画館、スロットマシーンのカジノなどがあり大人でも楽しめる総合娯楽遊園地である。少年近衛兵の鼓笛隊の行進はアメリエンボー宮殿衛兵の交替式のミニ版である。夜のイルミネーションのなかに四重のチャイニーズ・タワーが幻想的に浮き上がってみえる。おとぎの国に迷い込んだような楽しい時間であった。11時半から花火が打ち上げられ12時に門が閉まる。行進や花火などのアイデアはディズニーに引き継がれていった。

44日目のイベントはカールズバーグのビール工場見学であった。創業は1847年でデンマーク最古、最大のビール工場である。石造りの門を重そうに背中で支えた2頭の象が一行を出迎える。電気自動車にのって工場内を1回りした後、楽しみのただ呑みが待っていた。
人魚の像は創業者カール・ジャコブセンが市に寄贈したものである。モスグリーン、金、赤、深茶色、銀色のラベルを土産にもらって帰った。

コペンハーゲンの最後の夜をベネヴァイスのサーカスで楽しむことになった。ベネヴァイスは90年の歴史を持ち、過去4年間連続でヨーロッパ最優秀サーカス団の栄誉を勝ち取っている。特に世界中のトップクラスが集まってくるピエロは質の高い笑いをもたらしてくれる。65頭のアラビア馬を所有し、インド象とともにこれら動物を調教しているのがベネヴァイズ一家の長、ダイアナ・ベネヴァイズである。プログラムに紹介された彼女の写真は、腰まで伸ばした黒髪に褐色の肌と黒い大きな瞳のなかに真っ白な歯が魅力的である。腕には銀や銅製の幅広のブレスレットをつけ上着は赤やピンク基調のパッチワークをほどこした綿地である。典型的なジプシー美女と見受けられた。

45日目、コペンハーゲンを北に進みバルト海と北海を結ぶカテガット海峡の町ヘルシンゴーで休憩を取る。今は砂浜の続くリゾート地であるが中世のころはここに砦を築いて海峡を通る船から通過税を取りたてていた。ここに16世紀後半にフレデリック2世によって建てられたルネッサンス様式の
クロンボー城がある。シェイクスピアのハムレットの舞台になったところである。

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12.(スエーデン)

ヘルシンゴーからフェリーで20分渡った対岸はスウェーデンの南端に近いヘルシンボリである。ヘルシンゴーとは最初の4文字(原語ではHからGまでの7文字)を共有している。何かの意味があるのだろう。人口10万人のちいさな港町である。紀元は10世紀の要塞の町であったが今はその塔が残るのみである。

この町には半日いただけで、翌日の大移動にそなえての時間調整という意味合いが強い。スエーデンについてのメモは残っていない。訪れた国の人形を買うことにしていたルールもここは省いた。ヘルシンゴーを半日見ただけでスウェーデンを見たとは、良心が許さない。


46日目、フェリーで西ドイツの北東の港町、トラベミュンデに上陸した。そこから中世の時代絶大な経済力でヨーロッパを支配したハンザ同盟の中心地、リューベックとハンブルグを通り抜け、一路最後の訪問国オランダに急ぐ。昼過ぎにはアムステルダムに到着した。


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13.オランダ(ネーデルランド)

北海に面した小村で凍り付くような寒い日に、子供が堤防の穴に腕をつめて国を救った話を小学校のときに読んだ。今その場所はスパーンダムで、少年の名はハンスであることを知った。オランダはネーデルランドという言葉のとおり、国土の4分の1が海面下にある低い国である。面積はスイスやデンマークとほぼおなじでアムステルダムのある北ホーランド州とハーグやロッテルダムのある南ホーランド州に分かれる。私たちが見たのは北のオランダである。国土がせまく土地が平らであるため自転車利用がさかんで、国民1人あたり1台以上を持つ自転車王国である。

最後のページのメモには「チューリップ、チーズ、木の靴、水車」とあるだけで印象は何も書かれていなかった。日本が鎖国時代に親しくしていた関係で、国民の対日感情はよい。1ギルダーは約120円でドイツマルクやスイスフランと等価である。


ホテルにチェックインをすませ夕方までバスでの観光である。郊外をさきに見ることにして市内は明日自由に見る予定になっている。オランダ名物の水車は年々少なくなって、郊外までいかないと見られなくなってしまった。近づくと古い小屋のようなものなのだが、運河をあぜ道にした田園の遠景に複数の水車が配置されている風景はオランダでしか見られない魅力的な絵である。


チーズ小屋を見学する。南ホーランド特産の黄色の円盤状に固められたゴーダ・チーズと、北ホーランドの赤い球状のエダム・チーズが知られている。私たちが訪ねたところはゴーダ・チーズを作っているところで、ほんのり黄色く焦げ目のついた鏡餅のように丸くまとめたチーズの固まりに、焼きごてで印をつけてできあがる。それを幾重にも重ねてリヤカーで運びだす。チーズは新鮮なミルクのように香ばしく歯ごたえがありながら歯にまつわりつくような粘りがあった。

北の郊外、アイセル湖に面した村
フォレンダムを訪れる。子供の絵本にでてくるような小さな漁村である。見るからに小さな家のなかをのぞくと、ナチス強制収容所でみた3段ベッドよりも狭くるしくて、ウサギの小屋よりも小さく思えた。日本の家の狭さを恥じることはない。村には伝統衣装と木靴を身につけた人をよく見かける。男は黒一色で頭に小学生の学生帽のような小さな帽子をのせている。女も黒のワンピースに縦縞のはいった長いエプロンをして頭には先のとんがった看護婦の帽子のようなものをかぶっている。男の帽子は「屋根の上のバイオリン弾き」にでてくるユダヤ人のそれにも似ていた。いずれも色彩に乏しい地味な衣装である。

その村の木靴を売っている店にはいると、目の前で彫って見せてくれた。みやげに絵柄のはいったミニ木靴と粗削りの実物大のものと2足買った。大きいほうは逆さまに架けられる
フックが付いていて領収書入れにもなれば、花瓶がわりにもなりそうだ。

店の前に真っ赤な大きい木靴が無造作に置いてあった。大きすぎて盗まれることは心配していない風である。妻に記念写真を申し出た。いつもは風景の一部だが今度は人物本位の写真を撮ると告げた。バレリーナのように大きくハの字に脚を開いて、妻は会心の笑顔を作ってみせた。

夕食後の自由時間のときに飾り窓の女を見学することにした。旗をもつ添乗員のあとをついていく団体行動ではなく、あくまで自由行動の一部である。ジーダイクといわれる周辺がその場所である。運河沿いの柳の並木に囲まれた、京都先斗町のような狭い路地に、レースのカーテンを左右にゆわいだ窓が並んでいた。額縁の中のモデルのように足をくんだ女、タバコをふかす女、立ち上がって手招きをする女、化粧中の女などがいる。カーテンが閉まっている窓は営業中というサインである。

運河にかかった橋の上から望遠レンズを窓の方向にむけて覗いていると、どこからか男の声がして、あわててカメラをしまった。偶発的なでき事だったのか、私に対する警告だったのか。あたりが暗くて声の主を見つけることができない上に、何を言われたのか理解できないからさっぱりわからない。とにかく、それを無視しつつシャッターを押す勇気はなかった。あの時、1枚くらい撮っていても時間は1秒もかからなかっただろうし、シャッターの音だって聞こえなかったはずである。にもかかわらずおとなしく引き返したのは、はじめからうしろめたさを感じていたのだと思う。

47日目、終日気の赴くままに町を見て歩く。アムステルダムは北のベニスといわれるように160もの運河と1000をこえる橋の町である。ガラス張りの屋根つき遊覧船が絶え間なく運河を廻っている。船の乗客と運河沿いのニレ並木を歩く人と橋の上から手を振る人達の間で交歓がおこなわれる。

通りや橋の上から手回しオルガンの軽やかな音楽が流れてくる。現地語でストラート・オーヘル、英語でストリート・オーガン、日本語では街頭オルガンという。この音色はアメリカのカウンティー・フェアにはつきものの調べである。外見を仰々しく飾り立てたおもちゃのパイプオルガンをリヤカーに積んだ紙芝居やのようなものだ。それが17世紀そのままの家並みと運河とめがね橋にマッチして町全体を愛らしい雰囲気で包んでいた。気に入った町の順位をつけるにあたってヴェニスとハイデルベルグをあげたが、どうやら3番目はアムステルダムにきまったようである。


建物の外観をながめているのも楽しい。中央駅は東京駅の原型であるらしいが私にはコペンハーゲンの中央駅のほうが似ているように思われた。家の造りにも特徴があって、まず幅がせまく4階建てまで高いつくりになっている。これは昔の家屋税が家の幅を基準にしていたために、ダッチ一流の合理性があみだした工夫であった。高くせずに奥行きを深くすると京都の商家のつくりになる。家の上部に細長い棒が手前に突き出ているのは、家具その他の荷物の出し入れを狭い急な階段をさけて、外の窓から行うために荷物をつるす滑車を取り付けるためのものであるという。屋根の切妻にも特徴があって、3角の2等辺が階段状のもの、直線のもの、あるいはベル状の形をしたもの、肩から首がでているようなもの、単純に水平にきったものなど様々である。とくにベル状のものはデンマークやスエーデン、そしてプラハでもよく見かけたように思われる。異国情緒を感じさせるたたずまいである。

アムステルダムはユダヤ人の多い町である。西のエルサレムともいわれるようにヨーロッパのユダヤ文化の中心地でもあった。ここで生まれた17世紀の哲学者スピノザもユダヤ人である。アムステルダムがダイヤモンド研磨産業の中心であることもユダヤ人と関係している。


運河沿いのアパートのような建物の天井裏に家族とともに隠れ住んでいたアンネ・フランクは、1942年から44年の8月ゲシュタポに見つかって連行されるまで、自分の思春期の記録を日記に書きつづった。ただ1人生き残った彼女の父親によって戦後の1949年に出版されたその日記は50ヶ国語に翻訳されいまだに世界のベストセラーに名をつらねている。映画「アンネの日記」で見た、ドンデン返しの本棚や、窓下に連れ去られていく人々を見下ろすシーンや、息詰まる部屋の生活などがよみがえって来る。なかでも初潮を迎えておとなになったアンネが、天井窓から空を眺めるラストシーンは彼女の行く末を知っているものの心を痛めずにおかない。アンネ・フランクはバーゲン・ベルセン・キャンプに連れて行かれ1945年3月、そこで発疹チフスのために15歳の若い命を終えた。連合軍がドイツを解放する2ヵ月前のことである。

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別れ

ついに第48日目がきて、ヨーロッパ大陸を離れてロンドンにもどることになった。
いよいよバス・ドライバーとリーダーに別れを告げるときになって、アラバマの赤毛の女の子は運転手に抱きついて泣いたまま、離れようとしなかった。ニューヨークのグラマーガールはその時既に恋の競争に勝てなかったことを自覚していて、アラバマ小娘を冷めた目で眺めていた。パリの伊達男にとっては、どちらでもよかったのである。

ロンドンでさらに3日を過ごす。特に予定されたプログラムはない。各自が自由に見残した所へ出かけていった。そこで自由解散である。ある者はスコットランドまで足をのばし、あるいは、海をわたってアイルランドまで行く者もいた。そこを故郷にする人たちがいる。

当初の計画では帰路もニューヨークからセントルイスまで飛行機で帰る予定であったのだが、フィルムと指輪に予定以上の出費が重なって資金不足に陥っていた。長距離バスもまた経験だろうと、グレイハウンドで車中1泊、オハイオ・バレーをぬけてセントルイスに帰った。夏休みの残りは写真や資料の整理に費やした。それらの記録が25年ぶりに日の目を見たことになる。

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別れ
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