西海岸の旅−2  
(1996年 夏)
サン・フランシスコ
ナパバレー
サリナス
 エデンの東
 怒りの葡萄
モントレー
ビッグ・スール
サン・シメオン
 市民ケーン
 ハースト・キャースル
サンフランシスコまで、ロスアンジェルスからインターステート5号線をとれば車で8時間、ノンストップで走れば6時間の距離である。およそ東名+名神の距離に近い。海岸沿いを走る1号線でゆけばその倍の時間はかかるであろう。
往路は高速道路を、帰路は美しい海岸ぞいのローカルをのんびり帰ってこようと思う。
サンフランシスコで2泊、ナパバレーのワイナリーで1泊、そして海岸沿いのモントレーで2泊して、できればサン・シメオンで新聞王ハーストの城によっていければ申し分ない。



サンフランシスコ

霧にむせぶ町。ジョン万次郎・福沢諭吉・勝海舟を乗せた咸臨丸、そして堀江青年のヨットを受け入れた港町。ヒッピーとゲイが安住できる町。名門スタンフォードとバークレーを持つ学生の町。そしてシリコンバレーを従えるITの町。サンフランシスコは常に時代の最先端を歩んできた。

それでいて、ニューヨークやフィラデルフィア、シカゴ、ロスといった大都市のもつけばけばしさや退廃がなく、ボストンのように毅然とした精練さを保っていながら、かといって権威や伝統に固執することもない。同じカリフォルニアでも、ロスにはない、しっとりとした湿り気を肌に感じる。気品ある都会の匂いが漂ってくる町である。

東京や大阪、あるいはまた京都や奈良でもなく、いってみれば神戸や横浜であろうか。派手、下品、地味を排した「粋」な町である。パリやローマともちがう。

「わが心のサンフランシスコ」は唄う。

The loveliness of Paris seems somehow sadly gay
The glory that was Rome is of another day
I've been terribly alone and forgotten in Manhattan
I'm going home to my city by the bay.
……
I left my heart in San Francisco
……
When I come home to you, San Francisco, your golden sun will shine for me!

パリの魅力はなにかものかなしげだし、栄光のローマはもはやない。
見知らぬ人ごみのマンハッタンではひどく孤独だった。
私が帰りたい町はサンフランシスコ。

ゴールデンゲイト・ブリッジ(金門橋)

小学のころ愛読した年鑑には、各ページの端に小さな文字で一行メモが載っていた。クイズ研究会が好みそうな雑学集である。その一つにこの橋のことが書いてあって、私の子供心を大きく刺激した。事実は、1937年に完成した2.7kmの世界最長の吊り橋ということであるが、憶えているのはそのことではなくて、次のような子供向けのコメントだった。

「この橋は世界で一番長く、歩いて渡って帰ってくると靴底のゴムが擦り減ってしまう」

当時のゴム靴がいかに劣悪であったとしても、たかだか5kmを歩いただけでつぶれるようなものではなかったろう。しかし私はこの表現をまともに受けてアメリカの巨大さにショックを受けた。

橋の長さはともかくもその姿が美しい。マンハッタンの摩天楼を背に、石造りの重厚なアーチが構えるブルックリン・ブリッジが男性美なら、霧にかくれ、時にはにかむように身をくねらせるこの愛らしい橋は女性の優美さである。

町を散策し宿に帰る途中に出会った、黄金の夕日を遠くに横切るゴールデンゲイト・ブリッジのシルエットは素晴らしかった。「わが心のサンフランシスコ」のメロディーが闇に溶け出してくる。


アルカトラズ島

スペイン語でペリカンを意味するこの島は、もともと鳥だけが生息できるというところだった。150年前、ゴールドラッシュにともなってそこに軍の要砦が築かれ、19世紀末のアメリカ・スペイン戦争の間は捕虜収容所として使われた。後に連邦政府の刑務所となりマフィアの大ボス、アル・カポネもここに収監されている。

わずか海岸から1マイルの距離であるが、そこを流れる海流が非常に冷たいために、脱出を試みた囚人で対岸まで泳ぎきった者はいなかったという。

1963年に監獄としては閉鎖され、以後金門橋にならぶ観光スポットとして地元経済に貢献している。船から島を見た。つぶれた病院のような陰気が漂い、上陸して見たいとは思わない。

フィッシャーマンズ・ワーフ

港のあるところたいていこのような一角があるものだが、規模と質においてサンフランシスコの波止場にすぐるところはないのではないか。この町には出張で何回もきているが、金門橋やチャイナタウンをみなくてもここだけは欠かさなかった。歩道には大道芸人や似顔絵描きが必ずいて、人の間に双向的な会話がなされる。そこに集る観光客の一員として参加しているだけで楽しい。

特にカニ、ロブスター、クラムが好きな者にとっては天国のような所である。レストランにはいらなくても歩道の屋台で丸ゆでのカニや、サワードーフという、パンをくりぬいたスープボールに入ったクラムチャウダーを堪能できる。どれも安くてうまい。

港には60以上もの埠頭があるがそのなかで39番と41番がとくに人気が高い。
アルカトラズをはじめ観光向けのクルーズが出る桟橋でもあるが、レストランやショッピング、アトラクションなど、散策するだけで港の雰囲気を十分楽しめる場所である。近くに異様な音がして桟橋に挟まれた海を覗くと、そこはアシカのハーレムであった。

トップへ


カリフォルニア・ワイン

ワインといえばフランス、ドイツ、イタリアがまず頭に浮かぶ。世界史における芸術の分野とおなじく、アメリカは二流とみなされてきた。その二流品中の一流ワインがサンフランシスコの北でつくられる。

ロスに転勤になって早々に、あるワイン愛好家から「カベルネ・ソーヴィニヨン」だけは知っておくように、と教わった。ちょっと発音しづらく覚えるまでに時間がかかった。今でもときどき「カベルネ」だったか「カルベネ」だったかわからなくなるときがある。英語で「台所」か「鶏」か、一瞬考えるときがあるが、そのたぐいの迷いである。

サンフランシスコの町から世界一美しい吊り橋を渡り、湾を右手に遠回りするように北上するとアメリカで一番の葡萄の産地に出る。ソノマからナパにかけて、緑の谷がどこまでもゆるやかになみうつ景観はウェールズの眺めを思いおこさせた。そこに広大なワイナリーや豪華なマンションが点在している。そのいくつかをのんびり訪ねてまわった。


ロバート・モンダヴィ(Robert Mondavi)

なかでも、広大な葡萄畑に囲まれて、西部でみたナチュラル・ブッジのような長大なアーチを構えたロバート・モンダヴィは規模においてこの地で随一と思われた。南部でいえばコトン・フィールドの中に立つプランテーション・ハウスのような存在だが、鬱蒼としたスパニッシュ・オウクに隠れていない分だけ、葡萄畑に居座るマンションは明るくて開放感に満ちている。


10人ほどの観光客を束ねて、ワイナリーの男性がツアーを組んでいた。葡萄の木は意外に低く貧弱に見える。ツアーの最後のテイスティングが楽しい。ワイナリーによる味の違いなど私にわかるわけもなく、総てが美味であった。ワインは赤くて渋くて甘ければそれでよい。土産売り場ではダース単位の別送注文をするワイン収集家もいた。



ドメーヌ・カネロス(Domaine Caneros)

左右対称に均斉のとれたヨーロッパ風の館である。フランス、シャンパーニュの資本で建てられた。18世紀のシャトウをまねた城館のように豪華なマンションの中は新しかった。スパークリングワインで知られる。72段の石段を登ってたどりつく広い大理石のテラスからは延々と広がるブドウ畑の見晴らしがすばらしい。

トップへ



サリナス − ジョン・スタインベック

サンフランシスコからモンテレーへ行く途中に、サリナスバレーとよばれる広やかな盆地がある。カリフォルニアならどこにでも見かけられる平凡な農村地帯だ。葡萄とレタスがよく採れた。1916年、レタスを氷詰めにして、近くのワトソンビルまで列車で輸送する事業が成功したという記録が残っている。

20世紀が始まって間もない1902年2月、この町にノーベル賞受賞(1962年)作家ジョン・スタインベックが生まれた。『エデンの東』のレタス畑も『怒りの葡萄』の葡萄畑もこの土地にある。
 
彼の多くの作品が映画化された。知られているのはいうまでもなく、ジョン・フォードとエリア・カザンの手になる2本である。


『トティーヤ平』(Tortilla Flat) 1935 ヴィクター・フレミング 1942(米)
『二十日鼠と人間』(Of Mice and Men) 1937 ルイス・マイルストン 1939(米)
『赤い小馬』(The Red Pony) 1938 ルイス・マイルストン 1949(米)
『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath) 1939 ジョン・フォード  1940(米)
『月は沈みぬ』(The Moon is Down) 1942 アーヴィング・ピッケル 1943(米)
『缶詰横町』(Cannery Row) 1944 デーヴィッド・S・ワード 1982(米)
『気まぐれバス』(The Wayward Bus) 1947 ヴィクトル・ヴィカス 1957(米)
『真珠』(The Pearl) 1947 エミリオ・フェルナンデス 1947(墨)
『エデンの東』(East of Eden) 1952 エリア・カザン 1955(米)

エデンの東

スタインベックは旧約聖書のカインとアベルを下敷きに、レタスのエピソードを取り込んで小説を書いた。題名は「エデンの東」、映画ではジェームス・ディーンが主演した。

2人兄弟のうち兄だけが父に可愛がられ、できの悪い弟キャルは愛に飢えていた。父親からは死んだといわれていた母は、実は町で売春宿を経営する女将であることを知る。絶望した兄は第一次大戦の戦地へ赴いた。

父はレタスを冷凍してニューヨークへ輸送する事業に失敗した。そんな父親に喜んでもらおうと、キャルは大豆相場で儲けた金を父親の誕生日に贈る。父はそれを「汚い金」だといって受け取らなかった。

やがて病に倒れた父を看病したのは兄の許婚エイブラとキャルだった。それでも父はキャルを認めない。
「愛されないほどつらいことはありません」
ただ1人キャルを理解するエイブラが父に訴える。
父はついに最後の力をふりしぼってキャルの耳元に答えた。
「あの看護婦はスカン。これからはおまえに看てもらう」
キャルは、満たされ、喜び、涙し、そしてはずかしく照れた。


ジェームス・ディーンはこの映画の公開半年後、ここからさほど遠くないハイウェイで愛車ポルシェに乗って弱冠24歳の命を終えた。「エデンの東」のほか、「理由なき反抗」と「ジャイアント」の2本に主演しただけの、あまりに性急な一生だった。


怒りの葡萄

ニューヨークに発した大恐慌に追い討ちをかけるように、1931年中西部を大旱魃が襲った。グレートプレーリとよばれる大平原は砂塵が舞い上がる砂漠と化した。多くの農民が家財を幌馬車に積んで一路遥かなカリフォルニアをめざして西進した。オクラホマの農場で小作人として働いていたトム(ヘンリー・フォンダ)の家族もその中にいた。

オクラホマといえば、ちょうど100年前、豊かなアパラチア山地に住んでいたチェロキー他のインディアンが政府の強制移住法により連れて来られた不毛の地である。
オクラホマの農民たちの西進はインディアンたちのたどった涙のトレイルほど悲惨ではなかったにしろ、産業資本家に追い立てられた無産農民の逃れ道だった。

ロッキーとシェラネヴァダを越えてたどり着いた土地の自然は豊かではあったけれど、資本家と賃金労働者との対立構図は変わらなかった。雇われた農場で賃金カットに反対するストライキが起き、そのリーダーが殺される。トムは復讐にその犯人を殴り殺してしまう。トムは家族と別れて一人逃亡の旅に出た。

若き日のヘンリー・フォンダは無口で正義に一途であった。「黄昏」でも頑固な男だった。「怒りの葡萄」のポスターにあるヘンリーは「黄昏」からさかのぼること41年、ヘンリーが35歳のときの顔である。男がみてもいい顔だ。


トップへ



モントレー半島

サリナスから西に1時間ほど行ったモントレー半島の北の付け根に、かってのカリフォルニア州都、モントレーがある。1602年スペイン人セバスチャン・ヴィツカイーノによって上陸探検されたが、本格的な開拓は1770年のセラ宣教師の着任から始まる。スペイン統治時代を偲ばせる建物と、その後東部商業資本の進出に伴うニューイングランド調の建築が融和して美しいおちついた街並みである。

町の中心からやや西にいった海岸よりに、かってスタインベックの小説『キャナリー・ロー(缶詰横町)』の舞台となった缶詰工場街があった。1900年代にはイワシを中心にした缶詰工場が賑わい日系人も活躍した場所である。缶詰産業は1950年に終わりをつげ、漁業から観光産業にその軸足を移した。今その少路には、工場の建物が一棟残るのみで、その一角は小粋なブティックやレストラン、ホテル、ギャラリー、アウトレット・ショッピングセンター、モントレー水族館などが集る観光の中心地となっている。1962年のスタインベックのノーベル賞受賞がそれに輪をかけたろうことは想像に難くない。


17マイル・ドライブ

モントレーの町から美しい海岸線にそって半島を一周すると、南の付け根のカーメルに至る。
海岸線と内陸の高級住宅地を縫うように17マイル(約27km)の有料道路が周回する。バブルの時代日本資本の手に移った名門ゴルフコース、ペブルビーチがここにある。
途中の海岸には「一本杉」のほか、岩と木々が織り成す見事な景色を楽しめる部分がある。スコットランドのリンクスの雰囲気ではあるが、空の高さと空気の暖かみがちがう。おりしも日が落ちつつあった。予定していたように車を止め、しばしの
撮影会となった。日が沈みきるまで会は終わらない。

カーメル

有料ドライブがペブルビーチのゴルフコースを通り過ぎるとカーメルに入る。スペイン人宣教師によって南端のサンディエゴからカリフォルニアの土地が開拓されていった時代、カーメルに2番目の伝導所(ミッション)が設置された。豊かで美しい自然と穏やかな気候が気に入った宣教団はここに教団本部をおくことに決めた。

俳優クリント・イーストウッドが市長を務めたこともある美しい芸術家の町である。街路樹が整然と揃い花々が咲き乱れる町並みには、小粋なショップ、ギャラリーが立ち並び、ヨーロッパの小さな街のような雰囲気がある。そして一見してすべてが高価そうだった。




ビッグ・スール

モンテレー半島の南側の海岸にたって南方を眺めると、木々が海ぎわまで迫ったリアス式海岸の絶景に息をのむ。苔むした岩壁がつづくなかで、所々崖がくずれ落ちて褐色の岩肌を海にさらしている。谷間には常に霧がながれ、海岸線全体がにじんだようにかすんでみえる。当時の人たちは海岸沿いに広がるこの未踏の土地を "El Sur Grande(The Big South)"「エル・スール・グランデ」とよんだ。

現在では、カーメルから南はサンシメオン(ハースト・キャッスル)までの90マイル(144km)の地域を、英語とスペイン語を入り混ぜてBig Sur「ビッグ・スール」と呼ぶ。そのあいだを結ぶ1号線はカリフォルニア州最初のシーニック・ハイウェイに指定された。このようなすばらしい景観はインターステート・ハイウェイでは味わえない。

険しい地形の海岸線にそってゆっくり車を走らせる。90マイルの間には、岩陰に隠れるようにしていくつかの浜辺や州立公園がある。夏場であればキャンプする人が多い。
およそ3時間ちかくをかけてビッグ・スールの南口、サンシメオンについた。

ここはハーストの土地である。ここにウィリアム・R・ハーストは24万エーカーの土地を買った。琵琶湖の1.5倍、あるいは東京都のおよそ半分ちかくにおよぶ広さである。地目は「ランチ(牧場)」であるが見た目には荒野にちかい。

トップへ


サン・シメオン

市民ケーン

巨大な邸宅で1人の老人が「ローズバッド(バラのつぼみ)」という謎の言葉を残して死んだ。かつてアメリカのマスコミに君臨した新聞王ケーンである。「ローズバッド」という言葉に興味を抱いた新聞記者がその謎を解こうとする。様々な人物の証言から浮かび上がってきたものは、富も名誉も権力も欲しいままにした男の孤独な姿であった。

ケーンの死後、競売にかけられる美術品や骨董品の脇で、1台の子供用そりが無造作に暖炉に投げ込まれた。そりの背に描かれたバラの絵と"ROSE BUD"の2文字が炎に照らしだされ、やがてのまれてゆく。

弱冠25歳の天才オーソン・ウェルズの処女作「市民ケーン」(1941年)は映画界の最高傑作といわれ、未だに名画ランキング、ナンバー・ワンの地位を譲らない。だが主人公ケーンのモデル、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの反感を買い、興行的には失敗作となった。


新聞王ウィリアム・ハースト(1863−1951)

ウィリアム・ハーストは1887年、24歳で父親から新聞「サンフランシスコ・エグザミナー」を引継ぎ、新聞王への道を歩み始めた。1895年のジャーナル買収によりニューヨークに進出し、ニューヨーク・ワールドを発行していたジョセフ・ピュリツァーとの間で激しい闘いを繰り広げる。

記者の引き抜き、センセーショナルな報道でイエロージャーナリズムという新語を生む。全米に一大新聞網を築き42の日刊紙と13の雑誌、8つのラジオ放送局を擁するメディア帝国を築き上げた。政治や、女性、美術品にも貪欲であったことは歴史的権力者の例にもれない。

ジョセフはジャーナリズム最高の栄誉「ピュリツァー賞」で名を残し、ウィリアムは「市民ケーン」でその虚像を残した。


マリオン・デイヴィス(1897-1961)

ウィリアムの生涯の愛人だったニューヨーク、ブルックリン生まれの女優、マリオン・デイヴィスはトーキーをふくめて46本の映画に出演しているが1本としてビデオには残されていない。ブロードウェイのミュージカル・スターから、映画を志してロスアンジェルスにやってきた時、富と権力でハリウッドを支配していた34歳年上のウィリアムと出会う。50半ばのウィリアムは日本女性のようにやさしい目をした若い女性に一目ぼれした。

ウィリアムは資力にまかせて彼女の大キャンペーンを始める。映画会社をねじこんで多くの映画に彼女を主演させた。ウィリアムは彼女のためにサンタモニカに豪華なビーチハウスを建てた。ハースト城やサンタモニカの別荘にハリウッドの著名人を招いて、豪勢なパーティーのホステス役をつとめたのはマリオンである。ゲストにはニューヨーク市長や大西洋を渡ったリンドバーグの名前もあった。

しかし、マリオンは単にウィリアムに寄生していた女性ではない。大恐慌のあおりをうけてウィリアムの事業が苦境にあったとき、彼女はきまえよく自分の宝石を売って100万ドルの資金をつくり彼の会社を救った。

1947年、ウィリアムが84でマリオンが50歳のとき、2人はハーストの城をあとにして、ビバリーヒルズの彼女の自宅に移った。4年後ウィルアムはそこで88年の波乱の一生を閉じる。記念に彼女は私財を提供して子供病院をつくった。現在、UCLAメディカル・センターの一部としてある。


パトリシア・ハースト

さて時は1970年代前半、ウィリアムの孫の時代にさがる。60年代に頂点に達した学生運動が線香花火の最後の輝きを発していたころである。1972年、日本では過激派連合赤軍による「あさま山荘事件」が起きた。その2年後の1974年、アメリカで「過激派」のフィナーレを迎える。

場所はサンフランシスコの名門大学の町、アメリカ学生運動発祥の地バークレー。ひとりの魅力的な女子大生が誘拐された。彼女の名はパトリシア・ハースト。ウィリアムの孫娘だった。

犯人は「人民解放」をめざす過激派テロリスト集団、SLA。ハースト家の富を当てにして要求してきた身代金は、カリフォルニアの貧民支援金として1220億円という莫大なものだった。超富豪ハースト家といえども支払えなかった。

その後、事件は意外な展開を見せる。
 
誘拐事件から2ヶ月後、SLAは銀行を襲撃した。テレビの防犯カメラが捕らえた映像には、マシンガンをかまえたパトリシアが写っていた。

監禁状態におかれた被害者が、加害者との交流が進むにつれ次第に犯人に対して親近感を覚えるようになり、奇妙な信頼関係が成立する。これを、最初の症例が報告された土地の名をとって、「ストックホルム症候群」という。

犯人側の政治的な洗脳の上に、パトリシアには(随分甘ちゃんだと思うが)、家族に見捨てられた、という思いがあったらしい。それが犯人であるSLAと運命を共にすることを決意させたのだった。

その後も、パトリシアはSLAとともに犯行を重ねるが、ついにFBIに逮捕され、誘拐事件は終結した。この事件は、「洗脳されたストックホルム病者に刑事責任があるか、否か」という法律解釈の興味深いケースを提供したが、結局パトリシアは懲役7年の刑に服すことになった。
彼女は出所後、結婚して2人の娘をもうけた。女優として社会に復帰している。



ハースト・キャッスル

前置きがずいぶんながくなった。目的地に急ぐ。

サンシメオンのサンタ・ルチア山脈の中腹に、28年をかけて造られた、ニューポートのマンションでもかなわない古代ローマ風の邸宅がある。太平洋を見渡すためにはここまで上る必要があった。そこに165室の部屋、127エーカーの庭園、そしてテラス、プール、歩道を配した城を建てた。各部屋はヨーロッパの骨董品や美術品で埋められた。

ここが新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの邸宅で、愛人マリオンとともに、ハリウッドの女優や政界、財界、メディアの有名人を集めては豪勢なパーティーを開いていた。
今は州立歴史記念館として維持されている。場所は不便だが人気がある。

1号線からすぐには行けない。数キロ入ったところに仰々しくビジターセンターが待ち受ける。そこからは立ち入り禁止で、予約しておいた時間のバスに乗らねばならない。15分乗って城につく。かってに敷地内の見学はできない。予約しておいた4種類のデイタイムツアーのいずれかイヴニングツアーに参加しなければならない。つまりバスとツアーはセット買いしなければならないシステムである。

東京都の半分に近いその敷地内での距離感を具体化してみる。東京駅にポツンと「ハースト・キャースル」という立て札がたってある。札が示す方向をみやると遥か彼方に山並みがかすんで見え、中腹になにやら人工物が認められる。東京駅から車で飛ばして5分、ビジターセンターに着いたらそこは新宿だった。そこから予約したバスに揺られて真っ直ぐの道をのんびり15分、目的地ハースト城は吉祥寺にある。とんでもないところである。

ところで私は帰路の余興に、予約なしで飛び込んだ。案の定、その日のすべてのバスは予約済だった。
「この辺でもう1泊する?」
妻の答えは「No!」だった。

ここにある写真はビジターセンターで買った本からのものである。
 


ヴェンチュラ

ロスアンジェルスまであと1時間と近づいたときに日が暮れた。右手の太平洋が赤く染まりつつある。海岸の日の入りを撮りたければすぐにでもハイウェイを降りて浜辺にでられる。一方で「私の写真に夕日が多い」という妻の批評が頭をかすめる。すでに今回の旅行でも初日にサンフランシスコのゴールデンゲイトを、そして昨夕モントレイで糸杉の枝にからむ夕日を堪能するまで撮ったばかりだった。

私はさりげなく海の方をみやって「大したことない」と聞こえるようにつぶやいて運転を続けた。妻がめずらしく「よさそうよ」と後ろから声をかけた。急遽次の出口で降り、沈む夕日と競うように浜辺にでて、今にも釣り竿をしまいかけている数人のシルエットを撮ることができた。夕日はいつも美しい。


トップへ