カリフォルニア・ミッション巡り
プロローグ

アメリカは人口に比べ、あまりに国土が広いという地勢的理由からか、あるいはそもそも美的鑑賞の対象になるような教会に乏しいからか、熱心なキリスト教徒が多いわりには日本のように「何とか何ヵ所」というお寺巡りをしない。そのかわり日曜日にはきちんと近所の教会へでかける。

宗教心が薄いといわれる日本人は、巡礼でもなく寺院を見てまわるのが好きだ。建物や仏像にそれだけの歴史的・美術的価値があるものが多いことに加え、周囲の風景が観光旅行の目的にかなう場所にめぐまれているからであろう。

カリフォルニアに「西国21ヵ所」というべき、唯一の例外がある。

東海岸は英国の商業資本家によって開拓されたが、西海岸はスペイン伝道師によって開かれた。カリフォルニアがスペイン領であったころ、1769年から1823年にかけてカソリック教会はキリスト教伝道師を送り込み、最南端のサンディエゴから始まり、最北端のサンフランシスコ・ソラノまで各地に合計21の伝道所(ミッション)を建てた。

インディアンの土地に勝手に敷いたそれらを結ぶ道を、「王の道」(El Camino Real)――英語で「The King's Highway」――と、いい気なものである。伝道師たちはその道をたどりつつ、沿道にすむインディアンにキリスト教を広め、農耕生活をすすめた。共存した例もあれば、スペイン軍によるインディアン撲滅に至った例まで、その結果は様々である。

これら21のミッションを全部見て回るのが1つの完結した旅行プランとなっている。
動機はかならずしも宗教的なものとは思えず、むしろ自分たちの祖先の開拓時代を懐かしむ史跡巡りという趣がつよい。砂漠地帯の厳しい気候に耐え、すぐ後に始まったゴールドラッシュの荒波を生き抜き、今に残っている歴史的建造物はそもそもこれくらいしかないのであろう。伝道所あるいは砦といっても、アドビとよばれる乾し煉瓦に漆喰を幾重にも塗り込めたもので、実際その大半は崩れて、今見るのは20世紀に再建されたものである。

ミッション巡りを、古寺巡礼に比べれば文化的価値はないに等しいチャチなものだ、と片づけてしまうつもりはない。写真の被写体としては十分にエキゾチックであった。私の訪ねたのはわずか数カ所にすぎないが、この際全部を時代順に巡礼することにする。カリフォルニア州生い立ちの歴史がわかる。




1.サンディエゴ(San Diego de Alcala)

カリフォルニア最南端の大都市サンディエゴは、メキシコ国境まで2、30分の距離にある。湾にそってガラス張りの近代的高層建築が建ち並ぶ一方で、オールドタウンにはニューメキシコでみかけたアドビ造りの民家がひしめく一角がある。インディアンの時代からスペイン時代―メキシコ統治の時代を経て、アメリカの領土となった。街をあるくと、パエリャとタコスとハンバーガーが入り混じったような臭いがする。

1769年7月1日、2ヶ月前にメキシコのバハ・カリフォルニアを発った219人のスペイン人のうち、サンディエゴ湾に上陸したのはその半分に過ぎなかった。ここにまず砦と伝道所が建設された。白漆喰壁がまぶしい現在の教会は1931年に復元されたものである。白壁に開かれたいくつもの窓にそれぞれ鐘が吊ってある。紫ピンク色の大型蝶が密生しているかのように、ブーゲンビリアの花が真っ盛りであった。

ここを最初の拠点にして、カリフォルニアの太平洋岸にそってサンフランシスコの北ソノマまで、600マイル、およそ1000km(東京―下関)におよぶ「王の道」の建設が始まる。スペイン人によって160年以上も前に発見されていた、モントレーの地を確保することが最初の仕事であった。2番目のミッションはそこに建てることが取り決められた。




2.カーメル(San Carlos Borromeo de Carmelo)

サンディエゴ上陸からほぼ1年後の1770年6月、宣教団は緑豊かなモントレーの地を探し当て、現在のモントレー市に2番目のミッションを建てた。インディアンとの折り合いが悪く1年後には半島の反対側カーメルに移る。温暖な気候と美しい海岸が気に入った宣教師セラはそこにカトリック伝道本部を置いた。以降モントレーは当時カリフォルニア一番の都会となり、最初の州都となった。1887年にはローマ法王がミサを行っている。

多くがアドビ造りであるなかでカーメルミッションは数少ない石造りである。アルハンブラを思わせるようなイスラム文化の香り高い南スペイン風の洒落た建築ととともに、その歴史的重要性とあいまってカリフォルニアミッションのなかでも特異な地位を占める。



3.サン・アントニオ(San Antonio de Padua)

3番目のミッションはサンディエゴとカーメルの中間に予定された。カリフォルニア中部にはサンタ・ルシア山脈が太平洋に落ちるように延びており、場所は海岸を避け、山脈の東側、サン・アントニオが選ばれた。1771年7月に完成し、広大な中庭には水車や潅漑施設も設けられ繁栄した記録がある。

メキシコ支配の下で廃れやがて放棄され、現在の建物は1940年代に再建されたものである。再建の都度、多くが場所をかえるなかで、サン・アントニオ・ミッションは当初の位置を守っている。



4.サン・ガブリエル(San Gabriel Arcangel)

サン・アントニオに続き、4番目のミッションが現在のモンテベロ市に設けられたが、5年後、更に豊かな地をもとめてサン・ガブリエルに移された。そこで、初期のミッションのなかでは最も裕福な伝道所として栄える。

1781年、この地にいた2人の神父と数人のインディアン、それに11家族からなる小さな集団が西に向かって発った。15kmの旅の後、海岸沿いに建設した町は、後に映画の町になり、サンフランシスコをぬいてカリフォルニア最大、アメリカ第2の都市となった。

「天使の女王の町」「El Pueblo de Nuestra la Reina de Los Angeles (the City of our Lady Queen of the Angels)」、略してロス・アンジェルスである。



5.サン・ルイス・オビスポ(San Luis Obispo de Tolosa)

サン・ガリブエルから1年後の1772年9月、「熊の谷」(Valley of the Bears)とよばれる山深い海岸近くに5番目の小さなミッションが建てられた。

モントレーをめざして海岸にそって北上中、この辺にたくさんの熊が出た。一行は熊を猟し、大量の肉をインディアンたちに分け与えた。話しはモントレーにある伝道本部に伝えられ、セラ宣教師はその良き心に答えてミッションを与えたのであった。



6.サン・フランシスコ(San Francisco de Asis - Mission Dolores - )

時間は4年飛んで1776年10月、ドロレスと呼ばれる入り江のほとりに6番目のミッションが建てられ、聖フランシス教会と名づけられた。それはやがてこの町の名前になる。世界でも指折りの良港に恵まれた土地であったが農地の少なさと湿った霧深い気候が災いして人口は伸び悩んだ。たかだか千人足らずから1年の間に2万人の町へと膨れ上がったのは、他でもない近くに金がみつかった1849年のことである。

分厚い壁にまもられた頑丈な建物は1906年の大地震にも耐え、サンフランシスコで最も古い建築物として、ゴールデンゲイト・ブリッジとともに一大観光名所である。広々とした16番通りのど真ん中に構え、バラの香りがたち込める中庭には、手を後ろに組みうつむきかげんで思索にふけるセラ宣教師が立っていた。

このミッションは高所恐怖症の元刑事ジェームズ・スチュワートが、なぞの人妻キム・ノバクを追う、ヒッチコックのミステリー映画「めまい(Vertigo)」にも登場するが、クライマックスは別のミッションでおこなわれた。そこでもう一度触れることにする。



7.サン・フアン・カピストラーノ(San Juan Capistrano)  

ロスアンジェルスに南接するオレンジ・カウンティはその名が示す通り一昔まえまでは広大なオレンジ畑がひろがる豊かな農村地帯であった。どの大都会でもそうだが、市内に人口が集中しスラム化すると、もともと居た富裕層は郊外に引っ越す。ニューヨークではマンハッタンからクイーンズに、そこから更にウェストチェスターに豊かな白人は移っていった。かっては日本の駐在員がその白人を追っかけ、迷惑がられたことがある。

ロスアンジェルスではニューヨークのウェストチェスター・カウンティにあたるのがオレンジ・カウンティである。ハイテク企業もロスのダウンタウンを避けて南に移った。1人当たり所得がもっとも高い地域である。私がロスにいたとき、そのカウンティーが倒産してしまった。郡の財政を握る収入役にあたる役人が財テクにのめり込んで大損を蒙ったのである。財政にゆとりがあったばかりに資金運用の魅力にとりつかれた。

前書きが長くなったが、そのカウンティーの生みの親がロスアンジェルスとサンディエドのほぼ中間の地に建てられた7番目のミッション・サン・フアン・カピストラーノである。東海岸でイギリスから独立を勝ち取って間もない、1776年11月のことであった。石造りの美しいミッションは19世紀のはじめには家畜3万頭を所有する繁栄を享受し、カリフォルニア・ミッションの宝石とまでいわれた。

その美しさと豊かさにひかれてでもなかろうが、いつしか古い教会の石壁にツバメが巣をつくるようになり、以降毎年3月19日の聖ヨセフの日になると南から大挙押しかけるようになった。ここは世界的に有名な「ツバメの聖地」でもある。



8.サンタ・クララ(Santa Clara de Asis)

サンフランシスコ・ミッション(6番目)の創設から3ヵ月が経ち一段落したところで、神父たちはこの近辺、できれば湿気をさけた少し南の牧草地帯に、もう1つ欲しくなった。そこで1777年1月、8番目のミッションの地としてサンタ・クララが選ばれた。

まもなくメキシコから到着した大勢の入植者に対処するため、ミッションと居住地区の分離がはかられ、人々はすこし東につくられた町に住んだ。今、ハイテクのメッカとされるシリコンバレーのサンノゼ市である。

大洪水や地震のたびに崩壊と再建を繰り返しつつもサン・ガブリエルにつぐ財産持ちとなった。サンタ・クララ大学はジェスイット教団がその敷地に建てたものである。現存するのはキャンパス内にある庭壁の一部と鐘楼に取りつけられてある鐘のみだが、大学チャペルは原型に忠実に復元されたものである。



9.サン・ブエナベンチュラ(San Buenaventura)

サンタ・クララとサンノゼの姉妹都市の誕生から6年後の1783年3月、ロスアンジェルスから北に1時間ほど行ったヴェンチュラの地にセラ宣教師としては自分が手がける最後のミッションを置いた。

他と同じく農業地帯ののんびりした村が、1887年、突然騒がしい町にかわった。鉄道が通ったのである。ミッションを中心に町は広がり繁栄した。ミッションは現在のヴェンチュラ市メインストリート、ビジネス街の中心にある。



10.サンタ・バーバラ(Santa Barbara−"Queen of the Missions")

「ミッションの女王」とよばれる壮麗なサンタ・バーバラの伝道所はもともとセラ宣教師の発案でヴェンチュラにさきがけて1782年に創立したものであるが、ミッションとしての許可は創立者の死後、1786年になるまで下りなかった。

サンタ・バーバラは風光明媚な港町でもある。日本を脱出した、青色ダイオードの発明者中村修二教授を招いたのがカリフォルニア大学のここ、サンタ・バーバラ校である。

町をみおろす丘の上に立つ、古代ローマ時代の寺院建築様式を真似たというこの建物はどこのミッションよりも高い。左右二つの巨大な鐘楼を含め、淡い灰桃色の礼拝堂の全容をカメラにおさめるには、前庭いっぱいに下がり地面からみあげるように広角レンズで撮らねばならなかった。

このミッションは他と異なり、創立から今に至るまでいちども世俗の侵略にあうことなくフランシスコ教会が支配してきた唯一の伝道所である。サンタ・バーバラのインディアンは非常に協力的で、ミッションを守るのに武装し軍事訓練までしたという。



11.ラ・ピュリシマ(La Purisima Concepcion)

サンタ・バーバラの北で道が二手にわかれ、右(内陸)の101号線をとるとソルヴァングの町やサンタ・イネス・ミッションに至る。左(海岸)の1号線をそのまま北上するとロムポックというお花畑で知られる小さな町に着く。冬の季節ではあったが青いラヴェンダーの花が畑一面に広がってかぐわしい癒しの香りを大気に漂わせていた。

1787年、この町にラ・ピュリシマという11番目のミッションが建てられた。1812年の大地震で完全に崩壊し、再建後もインディアンの蜂起や民間人の支配などで、宗教活動ははかどらず宣教師たちはサンタ・バーバラにもどってしまい、長い間瓦礫のまま放棄されていた。

100年以上たった1935年に復興され、現在は州立歴史公園として賑わっている。広い敷地に数個のスペイン風の建物がならぶ。鐘壁をもつ教会は暖かい灰桃色で、見た目に愛らしい。

東部海岸のプリマスやジェイムズタウンでみた歴史公園にくらべればはるかに小規模ながら、ここでも当時の開拓時代の生活を再現して見せてくれる。なめし皮のジャンパーにブーツ姿の数人が焚き火を囲んでいた。時々振り返っては空に向かって空銃を撃つ。別の作業所らしき建物の中では、機織り、鍛冶、皮なめし、ろうそく作りなどの実演も見ることができる。現在、殆どのミッションは建物の一部を資料館として公開しているが、人を雇って観光地化している例は他にない。



12.サンタ・クルス(Santa Cruz)

モントレー湾の南端にモントレー市があり、湾の北側にサンタ・クルス市がある。カーメル、モントレーに劣らず自然にめぐまれた土地であった。1791年にミッションがおかれるや瞬く間に他をしのぐほどの繁栄を見せた。人口増加に目をつけたスペイン人知事はミッションの川向うに居住区域を設け、公共事業としてそこに競馬場を建設した。競馬場はギャンブラーや暴力団の本部と化し、ミッションの生活は破壊された。

その後襲った地震や高波の天災は物理的にも建物を壊し、崩れた資材は持ち去られ跡形もなくなってしまった。現在、町をみおろすミッション・ヒルに立つ聖十字架教会は原型の半分のサイズで復元されたものである。



13.ミッション・ソレダ(Nuestra Senora de la Soledad−"The Lonely Mission")

ジョン・スタインベックの生地サリナスから南東に車で1時間ほど行ったところに1791年、「さみしいミッション」が建てられた。ミッション間の行程は馬で1日という内規があって、カーメルとサン・アントニオの間にもう1ヶ所要るという大義名分だった。

ところがすべての候補地選定がうまくいったわけでなく、失敗作もあった。ソレダは大失敗だった。山に囲まれた盆地で温度差は大きく、夏は砂漠で、冬は雨が多かった。土でできたアドビはそれにうまく適応できず、建物は夏にひび割れた。伝染病が発生し多くのインディアンが死んだり他地へ去っていった。

独りで守っていた宣教師も病に倒れ遺体は数人の信者によってサン・アントニオ教会へ運ばれた。その時を境にソレダにもどる者は誰もいなくなった。

最近になって教会の一部が復元されたが、21のミッションのなかで最も規模の小さいもととされている。ここをまかされた伝道師こそ孤独であったに違いない。



14.サンノゼ(San Jose)

20年前サンタ・クララに8番目のミッションができた時、信仰と居住の隔離政策にもとづいて造られた居住地がサンノゼ(サン・ホセ)である。ちょうどサンタ・クララから馬に乗って1日の距離だったため、ここにもミッションを置こうということになった。

実は、そこには好戦的なインディアンがいたため、本音ではその伝導所を戦術的な基地にしようという意図であったが、危惧に反して先住民との関係は良好に推移した。新たに赴任してきた音楽好きの宣教師は30人のインディアンからなる楽団を組成し、祭りには遠くドロレス(サンフランシスコ)やサンタ・クララから仲間が演奏を聴きに来たという。

ゴールドラッシュのときは取引基地として栄えたが、俗化がすすみ金を掘り尽くすとともにミッションは衰えていった。本格的な復興事業は最近の1982年に始まったばかりである。1985年には殆ど原型のままに美しい教会が復元された。おりしもサンノゼがハイテク産業のメッカとして人々をシリコンバレーに呼び集めていた時期に一致する。



15.サン・フアン・バティスタ(San Juan Bautista)

サリナスから南に行ったソレダは「さみしいミッション」だった。ほぼ同じ距離を北に向かうとサン・フアン・バティスタがある。1797年、信仰深いスペイン人伍長バレステロスとその部下5名が1ヵ月で建てあげたチャペルと家が、ミッションとして認められた。

今日、ソレダとは対称的に、スペイン風のプラザに面した美しいこの教会は人気が高い。古いカリフォルニアの雰囲気を保存して、町全体が州立歴史公園となっている。ヴァージニアのウイリアムズバーグのミニチュア版といったところであろうか。

そのプラザをキム・ノバクとジェイムズ・スチュワートが駆け抜ける。二人は教会の鐘楼を登り始める。サンフランシスコのミッションも登場したヒッチコックの「めまい」が、ここでクライマックスを迎えるのである。

高所恐怖症でめまいをおこし、ジェイムズは魅力的な人妻の自殺を助けられなかった。今、彼女そっくりの女性と同じ塔を登っている。男は恐怖症を克服して頂上まで上りつめた。前回、上までのぼったはずのその女は、気を失って階段にかこまれた吹き抜けの空間を落ちていった。



16.サン・ミゲル(San Miguel Arcangel)

同じ年の7月、3番目のサン・アントニオと5番目のサン・ルイスの中間地点に16番目のミッションが設けられた。鐘楼もない、長方形の単調な建物である。

既に付近のミッション周辺において、外来侵入者との接触を経験していた地元先住インディアンたちは、新たな外来者を抵抗なく受け入れた。宣教師のなかにフレスコ画を教えるものがいて、それを習得したインディアンたちは無地の壁を複雑なデザインで飾った。壁画は今日もそのままにある。

かっては海岸までつづくサンシメオン牧場も経営するほどに盛んであったが、やがてミッション全体が民間に売り渡され、僧院はショッピング・センターとなった。1928年になって再びフランシス教会の手にもどり、以降めざましい復興がなされた。
かっての僧院は現在、コルドバのメスキータのアーチ円柱をおもわせる回廊に先導されて、ミュージアムとしてサボテン庭園とともに人気を集めている。



17.サン・フェルナンド・レイ(San Fernando Rey de Espana)

同じ頃、同じ地理的理由で、サン・ガブリエル(4番目)とサン・ブエナベンチュラ(9番目)の間に17番目のミッションがたてられた。中間地点というよりは、はるかにロスアンジェルスに近い。

ロスアンジェルスという大市場に隣接したこのミッションでは皮、石鹸、布、家畜の生産が活発に行なわれおおいに栄えた。また、旅人を泊める宿泊施設としても盛んに利用され、富を増やした。神父はそれを元手に教会に宿泊施設の増築をかさね、世間では「王の道の長い建物」として有名になった。 旅人の目には、長細い平屋のモーテルとうつったのであろう。

ロスアンジェルスへの移住者が増え町が大きくなるに連れ、ミッションに住む信者や生産活動を支えてきたインディアンの流出をまねき、衰退の道をたどる。長い建物は倉庫や馬小屋となり、花で飾られたパティオはブタの飼育場となりさがった。

その歴史的価値がみなおされ復興運動がおこったのは1923年のことである。倉庫となりはてていた「長い建物」はふたたび教会の姿をとりもどし、ブタは売られて中庭が復活した。



18.サン・ルイス・レイ(San Luis Rey de Francia−"King of the Missions")

壮麗な10番めのサンタ・バーバラが女王なら、18世紀の終わりに建てられ、規模と富みにおいて最大のものとなったこの伝導所は「ミッションの王」とよばれた。定住インディアンは3000人近くに達し、5万頭の牛と羊、その他、豚、やぎ、馬などを飼育し、6エーカーの敷地には小麦やトウモロコシなどのために大規模な潅漑システムを作り上げた。

隆盛を誇ったこのミッションもその後メキシコの統治下で、世俗勢力による収奪などにより、見る影もない廃墟と化した。大勢のインディアンはパヤとよばれる保護区に移住させられ、今もそこで生活をつづけている。



19.サンタ・イネス(Santa Ines Solvang−"Hidden Gem of the Missions")

サンタ・バーバラから101号線を北上し、東に5kmはいったところにソルヴァングという人口5000人ほどの小さな町がある。Solvangとは"Sunny Field"という意味のデンマーク語で、20世紀初頭に小グループのデンマーク移民が作った町である。水車や人魚の他、キルトや木工品、ペイストリーの店など、町全体がひとつのテーマパーク・ショッピングセンターとなっている。一日過ごしてもよいし、2、3時間ですませることもできる。いずれの場合にしても、たいていの人はサンタ・イネスの見学にあてる時間だけはとっておく。

「隠された宝石」というニックネームをもつこのミッションは19世紀にはいった早々の1804年につくられた。数ある中で、もっとも立地条件に恵まれ、繁栄を期待されて大規模な建設がまだ進行中の1812年、大地震によってほとんどやり直しとなった。
その後完成した教会は現在まで健在で、歴史的に貴重な資料がよく保存されている。ソルヴァングの町はこのミッションの敷地に隣接してつくられた。

ソルヴァングで一泊した翌日にこのミッションを訪れた。雲ひとつない青空の下で思い思いに着飾った家族の一団とすれ違った。亜熱帯の空気が充満する美しい中庭で、ブーケを手に純白のドレスに身をつつんだ花嫁とタキシードの花婿が、カメラマンの注文を受けていた。



20.サン・ラファエル(San Rafael Arcangel)

サンフランシスコのドロレス(6番目)の地はもともと湿地と霧深い気候とで、健康には不向きな土地であった。そこに白人たちがもたらした病気で、先住民の多くが体をこわした。1817年、サンフランシスコから北にすこしいった日当たりのよい丘に、サナトリウムが建てられ、病気に苦しむ300人のインディアンがドロレス・ミッションから移された。

その後健康な信者もこの気候のよい土地にうつるようになり、人口も千人をこえ、1822年、独立したミッションとなったものである。農業、牧畜が盛んとなり、特にここで採れるナシは名物となった。

メキシコの統治が始まるや、総ての財産はメキシコ将軍に取り上げられ建物は破壊された。その後ミッションの存在自体も忘れられていた状態が続いたが、最近になってようやくチャペルだけが復元された。



21.ソラノ(San Francisco Solano)

今日のカリフォルニア・ワインの産地、ソノマに最後のミッションが作られた。1823年のことである。いきさつが少しややこしい。

サンフランシスコ・ドロレス(6番目)の勢力衰退をなげく1人の若い神父が上司の知らぬ間に、ラファエル・ミッションのさらに北のソノマに新しいミッションを建てた。その裏には、当時南下を続けていたロシアの毛皮商人と、サンフランシスコ地域の入植者の間に緩衝地帯を設けたいとする知事のうしろ盾があった。

予想に反しロシア人は友好的で、新しい伝導所にロシア風の鐘やいろいろな物を寄付してきた。それを知ったドロレス・インディアンが数百人の規模でソノマに移ってきた。自信を得た野心的なその若い神父は、いっそドロレス・ミッションを閉鎖してすべてをソノマへ移管すべきだと主張しだした。

教会内部で激論が交わされ、結局2つのミッションは独立して併存することが決められた。同胞のミッションから贈られるはずの新築祝いは、途中で消え何一つソノマには届かなかった。消えた場所はどうやらドロレスらしい。代ってロシアの毛皮商人から多くの贈り物が届いた。

メキシコによる接収でソノマの平和は短命に終わり、その後はラファエルとおなじ運命をたどることになる。現在は州立歴史公園としてミッションと町広場の一画が復元されている。



エピローグ

サンディエゴからソノマまで、まさにカリフォルニア州の南端から北のワイン地方まで、21のカソリック教伝導所を見てきた。それぞれのミッションの設立動機や経緯には違いはあるが、19世紀前半のメキシコ統治下の収奪・破壊行為に耐え20世紀に復活を果たし、現在のカリフォルニア主要都市の基礎をなしたという点で多くが共通している。

1日3ヶ所回るのはきつい。2ヶ所として11日。ちょうど2週間のヴァケーションにはよいプランではないかと思う。カリフォルニア州はほぼ本州に等しい。山口から青森まで、およそ2000キロ近くの距離をドライブして、訪ねる霊場がたった21ヶ所とは、ずいぶん効率の悪い巡礼の旅ではある。



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