ラスベガス-デス・ヴァレー国立公園(1995年2月)  

大統領の日の3連休を利用してラスヴェガスとデス・ヴァレーに行くことにした。ラスヴェガスまではロスからバスが出ていて、気楽に行く人は多い。ニューヨークにいたときもアトランティック・シティまで金曜日の夜にでかけて徹夜で遊んで土曜日に帰宅する好き者がいた。ホテル代も要らない節約派ギャンブラーである。

ラスヴェガスはもはやかっての、マフィアと女がたむろするギャンブルの町、という暗いイメージはない。家族づれで楽しめるレジャースポットに変貌していた。林立するホテルの奇抜さはあきれるほどである。ラスベガスのカジノというのは、そのほとんどがホテルと一体化している。大概のホテルは一階にカジノ、フロントなどがあり、2階や地下などに、ショッピングモールやレストラン、ビュッフェ。それより上の階が客室という作りをしている。客側もホテル側も宿泊が主目的でないことを承知しているので、室料自体はたいして高くない。

とにかく巨大なMGMグランドホテル、中世の城のようなエクスカリバー、入り口でスフィンクスが門番をするピラミッド型のルクソール。ホワイトタイガーショーで人気を誇るミラージュ。ミラージュのとなりは南国の海賊をイメージしたトレジャー・アイランドで、池には海賊船が浮かんで夜になると派手なショーが始まる。ギャンブルをしなくてもこれらのホテルやアトラクションを見歩いたりするだけで十分楽しめるようになっている。

私が帰国するころに更に大掛かりなプロジェクトが進行中で、それは砂漠にマンハッタンを再現しようというものであった。ホテルの名はシナトラの歌でおなじみの「ニューヨーク・ニューヨーク」。摩天楼のみならず自由の女神まで持ってくるつもりらしい。

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デス・ヴァレー国立公園

死の谷とよばれるこの地域は、グレイト・ベイスン砂漠の一部であるが、1400平方キロが海面下という低い土地にある。もっとも低い地点は海抜マイナス86mで、西半球での最低地点である。夏は摂氏50度以上まで上がり、焦熱の砂漠となる。19世紀後半のゴールドラッシュの時代、この谷は金目当ての坑夫や太平洋岸をめざす入植者にとっては忌まわしい障害であった。

1933年に国定記念物に指定された。私たちが訪れた時は、その前年の1994年10月に国立公園に昇格したばかりで、地図の他、ガイドブックはまだモニュメントのままだった。

国立公園に昇格すると同時に、範囲が13千平方キロをこえる地域に拡大され、アラスカをのぞくとアメリカ最大の国立公園となった。

夏の訪問は勧められない。冬季のわずかな雨が植物をよみがえらせ、一斉に砂漠の花が開く3月から4月にかけてがベストである。私たちが訪ねた2月は花の季節には早すぎたが、谷には水が十分にはって、遠くから見た限りでは豊かな谷間に見えた。

ラスベガスからデスバレーの村の中心に入るまでに大きな砂丘がある。一時間ほどのトレイルを歩いてもこの季節では厳しさを感じさせない。砂丘の波が、薄紫色をした山脈に消えていくように連なっている。

ファーニス・クリークが公園の中心をなすビレッジである。ビジターセンターや宿泊施設があり、リゾート地として成り立っているようだ。ファーニスとは炉のことで、いかにも灼熱の地を思わせる。こんなところにも緑のそろったゴルフ場があって、意外な感じがした。

そこからルート190をすこし南下したところに
ザブリスキー・ポイントがある。展望台に立つと、ゴールデン・キャニオンと呼ばれる黄金色の山ひだがみわたせる。イエローストン渓谷の硫黄の黄色さでもない。ガイドブックには、黄金色をした泥が堆積したものだとあるが、なにが泥を黄色くしたのかは書いていなかった。直射日光を浴びると金色に輝く。まさか砂金ならぬ泥金でもなかろう。

いよいよデスバレーの真髄に迫る。道を178号線にひきかえし、しばらく南に進むと湖畔にでる。湖といっても通常は乾いた荒れ地で、冬の間だけ周囲の山々(最高峰は3368m)から流れ出る雪水を貯めた塩湖となる。

最初の標識は
「デビルズ・ゴルフコース」とあった。悪魔がプレーをするゴルフ場である。これは乾いた風景を名づけたものだろう。私たちがみたそのゴルフ場とは、塩と泥と小石が練り合わさって固まった突起が、一面に広がっている水溜まりであった。深さはせいぜい50センチくらいのものだが、外観はあくまで湖であって、ゴルフ場には見えない。水は澄んでいる。手にすくって舐めてみると、塩辛いというより苦かった。

次の標識が、デスバレーの極めつきで、
「バッド・ウォーター(悪水)」とある。「西半球最低地点、海抜マイナス282フィート(86m)」がその副題だ。この辺の水深は悪魔のゴルフ場よりもずっと深い。当然のことながら、西半球の最低地点はデスバレーの湖の最深地点である。

駐車場から水辺までは200mくらい歩く。途中踏みしめたのは砂か塩か。水辺にでる。これほど湖が広がるのはまれであるらしい。そういえば、今年の冬はロスアンジェルスでも雨が多かった。足元の水は青く透きとおってきれいであった。飲み水としてはバッドというだけのことのようだ。

夏は避けろというが、汗もかかずに豊かな水をたたえる湖畔に立っていては、「死の谷」という地獄のイメージを描くのが難しかった。冬ではなく春か秋がいいのかもしれない。もちろん、安全に夏のデスバレーを体験できれば、それに越したことはないのだろうが。

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ヨセミテ国立公園(1995年夏)  

明子はハーヴァードウエストレイク高校を卒業し、この旅行が終わると東海岸に移動してイエール大学の寮に入る。剛哲はカーティス・スクールを卒業し、西大和学園に転入して日本語をやりなおす予定である。2人の卒業式を見届けて、妻はすこぶる機嫌がよい。
ロスアンジェルスからフレスノを通り車で約8時間、卒業記念家族旅行と銘うってヨセミテへ行くことにした。

イエローストーンと並ぶアメリカの代表的国立公園であるヨセミテのイメージは、アンセル・アダムスの写真によって私の脳裏に焼き付いていた。モノトーンの冬のヨセミテ・バレーの空には、白く小さく切り抜かれた月が貼り付けられてある。

昔のヨセミテ・バレーは野原が広がり、森のなかを清流が流れる、平和な自然の奥座敷だった。切り立った岩壁が外部からの進入を阻んだ秘境である。そんな谷間に今から3、4000年も前から、先住民であるアファニチ族インディアンが住んでいた。 1849年、ゴールドラッシュが始まった年、2人の金鉱夫が偶然谷を訪れ、まもなく大勢の白人達が谷に住みはじめた。それと共にバレーの平和は破壊され、周辺の森は無残な姿に変わっていった。

インディアンとの抗争が始まり、1851年には200名にもおよぶマリポサ司令隊の出動に発展する。マリポサの軍隊が今のトンネル・ビューに立った時、眼前に広がる神がつくった庭の風景を見て、全員無言のうちに、銃を地面に置いたという。

ルート41がワオナ・トンネルを抜けたところに、ヨセミテバレーが一望できる展望駐車場がある。この場所は、世界で最も多くの人が写真を撮る場所の一つになっていて、そこにたつとインディンアンがこの谷を
「神の庭」と呼んだ理由がわかる。マーセド川を挟んで左にエル・キャピタン、ヨセミテ滝、右には花嫁のヴェールの滝、そのずっと奥にハーフ・ドームが浮かぶように見える。

谷底は広くてメドウや森が広がり、センティネル橋の近くには宿泊施設や郵便局をそなえた村さえある。ヨセミテの谷に住んで、すばらしいモノクロ写真でヨセミテを世界に紹介したアンセル・アダムスの仕事場が博物館としてこの村にある。
ハーフドームを除けば、車で谷を長楕円状にドライブして、主なスポットを見て廻ることができる。今は車の乗り入れが禁止されて、シャトルバスを利用しなければならないようだ。

トンネルビューからもっとも近場の滝である。インディアンはこの場所を「突風の精」とよんだように、崖のまわりを風が始終吹き上げ、水しぶきが霧となって八方を曇らせる。しぶきの霞に隠れて水の落ちるのがみえない。人はこれを見て花嫁を覆う純白のベールを連想した。ナイアガラにもアメリカの滝と、カナダの滝に挟まれて花嫁のベールの滝がある。
「花嫁のベール」という呼称はかなり一般的な表現のようで、何かが白い何かで奥ゆかしく霞んでいる場合に使われる。落差は189mで、イエローストーン・キャニオンのロウア滝や日本の華厳の滝の2倍にあたる。

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ヨセミテ・ビレッジを歩いていると、常に下腹に響くような地鳴りが耳についてはなれない。ビレッジのすぐ裏側の林のなかで、エンパイアステート・ビルの2倍の高さから落下してくる水流が滝壷で炸裂する音だ。落差740mで、世界第3位であるヨ
セミテの滝は、アパー、カスケード、ロウアの3段構えで落ちている。ちなみに、世界一の落差をもつ滝はベネズエラ、秘境ギアナ高地にあるエンジェルの滝で、979mの距離を一気に落ちる。1キロの距離を垂直に落下する水流の景観はさぞかし豪快なものであろう。

英語で滝を、あるときはFALLSとつづり、あるときは単にFALLといったりする。複数形になっている滝はヨセミテにように2段以上になっている滝で、単数形の滝は崖から滝壷に真っさかさまに落ちる滝である。

滝壷の前には手すりつきの橋が渡っていてカメラを構えるには恰好の場所であるが、水しぶきがつよくて体中ずぶ濡れになる覚悟がいる。車道から半ば林をはいったところで見上げると、上の滝の流れが木々の隙間に落ちてくるのがよく見える。この年は夏にしては水量が多いほうだといった。これでも秋にはほとんど涸れた滝になるという。

この巨大な花崗岩の固まりは谷底から1080mもある。花崗岩としては世界最大の一枚岩だという。世界中から集まってくるロッククライマーの憧れの的で、挑戦する彼らの姿は望遠で撮ってもゴマの粒ほどしか写らない。それでも人々は
エル・キャピタンの前に広がる草原にのんびりと腰を下ろし、双眼鏡を両手にして、垂直に立つ巨大な岩を覗き込んでいる。私は200ミリ望遠レンズを通して、ようやく1人のクライマーがわずかな岩の窪みに休んでいるのを認めることができた。想像するだけで高所恐怖症に陥りそうな気分であった。

1日で登り切る者もいるが、たいていは一夜を岩の面に蜘蛛がぶら下がっているような姿でキャンプするのだという。

グレイシア・ポイント

グレイシア・ポイントへ行くには、一度谷を出てかなり南に移動し、森の中を一時間近く迂回して、再び谷の南壁に出てこなければならない。ハーフ・ドームをほぼ水平に見渡せる高さまで登ることになり、気温は谷より10度も低い。トンネルビュー・ポイントとほぼ反対の角度から谷の全景をみわたせる展望台で、眼下に谷のビレッジ、正面にハーフ・ドーム、50km向うにはシエラネバダの白い峰が延々と続く。

谷間にはホテルが小さく見え、蟻のような人の動きも確認できる。ヨセミテの滝のながれもか細く見られる。特大シネマスコープのスクリーンの右から左端まで、マーセド川が見え隠れしながら蛇行している。

夕方近くになると、谷間の左側から順に赤味が増してきて、最後にハーフ・ドームの垂直の岸壁が夕日を受けて輝く、光のドラマを楽しむことができる。三脚をかまえてタバコをふかしながら夕日の映えを追うのは写真家の醍醐味であろう。天気がよければ夕日の沈むにつれて月と星が谷間の上に現われるのをみることができるという。このような光景をアンセル・アダムスはすばらしい構図とタイミングで写真に残した。

グランド・キャニオンほどの宇宙的な広がりはないが、ヨセミテは、多様な要素をあたかも庭師が意図して限られた空間に配置したように、「神の庭」にふさわしい。

ハーフ・ドームはヨセミテ最大のみどころで、谷から1420mの高さに達する。茶わん蒸しの碗をたてに真っ二つに割った形をして、谷の支配者のように高所から監視しているようである。この岩の年齢は8700万年でヨセミテの谷では最も若い火成岩だそうだ。グレイシア・ポイント展望台から頂上を注意深く眺めると、人の立っているのがわかる。岩の裏側に往復27kmの登山道があり、体力と勇気のある一部の人の挑戦を受けている。

ハーフ・ドームの偉容はヨセミテのどこにいても見ることができるが、特に谷間のセンティネル橋から見上げるドームの顔と、前述のグレイシア・ポイントからの横顔がすばらしい。その他トンネル・ビューからも遠く正面に見ることができるし、後述のタイオガ・ロード沿いのオルムステッド・ポイントからはハーフ・ドームの後ろ頭を遠望できる。

タイオガ・ロードはハイ・カントリーと呼ばれるヨセミテバレー北部の高原地帯を走る62kmの眺めの素晴らしいドライブで、公園の東口に通ずる。森や放牧地、湖、花崗岩のドームなど変化に富んだ景色が次々と現われて、ドライブを飽きさせない。

オルムステッド・ポイントからは後ろ姿のハーフ・ドームを右手に、ヨセミテバレーの奥に連なる岩峰の雄大な群れをみわたせる。駐車場の前は巨大な一枚岩石で、氷河の爪の傷痕が深く刻まれている。ここあそこに氷河に運ばれ、忘れられていった迷子石が放置されている。巨岩の斜面に大小の子岩が乗っかっていて、一見不安定で危険に見えるが、補強したりあるいは撤去したりするつもりもないらしい。それなりに安定しているのであろう。

しばらく行くと右手に花崗岩の岩山にかこまれて
テナヤ湖がみえてくる。8月だというのに湖面には雪が残っていた。このあたりは気温自体がかなり低くて、セーターを着ていても寒かった。

トゥオルム・メドウはトゥオルム川と荘厳たる山の峯やドームにかこまれた、アルプスの牧場をおもわせる広い空間である。夏はハイキングやピクニックを楽しめるが冬場はクロスカントリー スキーヤーだけの場所となる。

私たちはここでUターンして、ヨセミテバレーの旅を終えることにした。

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マリポサ・グローヴ

巨人セコイアの群生するマリポサ・グローヴはヨセミテの谷から58km南、公園の南入口から4km弱手前にある。電動トロッコ車に乗って森の中を見てまわることにした。

赤毛の色をした巨木が群立している。根本の直径が約10メートルあり、枝1本が普通の木の太さだという。日本の家屋1軒分の太さをもって、ずーと100mほど柱を空に伸ばしたような容積である。幹をくり貫けば車が通れるのも納得できる。

最初の数本は確かに強烈な印象を与えた。しかし人間の感覚は不思議なもので、これを10本、20本見ていくと、個々に微妙な個性があるとはいえ、「はあー、そんなものか」という程度の感度に低下する。やはり1日同じ場所で過ごそうと思えば、そこには動きや、遊びが必要なのだということがわかる。

不謹慎な話しかもしれないが、私のこの傾向は、美術館でもよく起こる。それに加えて、足の裏や膝の痛みを併発する持病がでてくる。

世界で一番大きな木として知られる
セコイアには2種類ある。1つは幹が太くて長生きのジャイアント・セコイア(ビッグ・ツリー)で、もう1つのセコイアは、背が高くてスマートなコースト・レッドウッド(アメリカ杉)である。前者がヨセミテやセコイア国立公園にあるもので、後者はサンフランシスコ郊外の太平洋岸、レッドウッド国立公園にある。

マリポサ・グローヴは最大のセコイアの森で、なかでもグリズリー・ジャイアント(灰色の巨人)は森で最古の、世界でも最大のセコイアのひとつである。根元直径8.7m、周囲29m、高さ62mで樹齢は2700年と推定されている。まさにアメリカの縄文杉である。

巨木の世界一はヨセミテの南にあるセコイア国立公園の
シャーマン将軍の木だといわれている。高さ83.8m、幹回り31.3m、体積1487立方mであるが、高さにおいてはレッドウッド(アメリカ杉)が107mで文字通り世界最高である。
太さにおいてはメキシコ、オアサカにある糸杉で地上周囲が49.4mといわれている。
シャーマン将軍の木は体積において世界一なのである。

巨木の話しのついでに日本について触れておこう。

日本では環境庁が巨木の定義を定めていて、地上から1.3mの高さで幹回りが3m以上の樹木を巨木というのだそうだ。全国巨樹・巨木林の会という民間団体がある。環境庁の依頼を受けて2000年に全国を調査した結果では日本に巨木は6万5000本近くあるという。

今回の調査で秋田県角館町で幹回り8.1mのクリの木や8.6mのブナの木が、また山形県の戸沢村では18.5mの杉の木が発見された。共に日本一とみられている。
杉ではこれまで屋久島の縄文杉が16.1で日本一であった。

ちなみに環境庁が平成元年に行った巨樹・巨木林調査(別名、緑の国勢調査)による太さ15mを越える種類別の日本一を挙げると以下のようになっていた。
メキシコの杉は縄文杉の3倍以上の化物であることがわかる。



  俗称       幹周(m)    樹種      所在地
蒲生の大クス     24.2   クスノキ    鹿児島県蒲生町
奥十曽のエドヒガン  21.0   エドヒガン   鹿児島県大口市保安林
縄文杉        16.1   スギ      鹿児島県上屋久町
老イチョウ       16.0   イチョウ    青森県百石町
天子のケヤキ     15.4   ケヤキ     福島県猪苗代町
古屋敷の千本カツラ  15.3   カツラ     岩手県軽米町


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西海岸の旅−1
デス・バレー国立公園

ヨセミテ国立公園