1976年の冬休みを利用してグランド・キャニオンまで車で行くことにした。道はルート66である。「ルート66」は西部がまだフロンティアの地だった頃、荷馬車が残した轍の跡からはじまった。

1926年、シカゴから、イリノイ・ミズーリ・カンサス・オクラホマ・テキサス・ニューメキシコ・アリゾナ・カリフォルニアの8つの州を通り、ロサンゼルスの太平洋岸サンタモニカまでを結ぶ大陸横断国道、「US66」が誕生した。「アメリカのメイン・ストリート」あるいは「母なる道」とも呼ばれアメリカの西部開拓史を見守ってきた、いわばアメリカの東海道や中山道である。

延長は2450マイル(約4000km)で中山道の7倍ちかくの長い道だ。日本橋にある道路元標によれば日本橋―鹿児島が1469キロ、日本橋―札幌が1156キロとある。つまり札幌―鹿児島がおよそ2600キロだからその1.5倍の距離に相当する。

「ルート66」は第二次世界大戦直後に歌として大ヒットした。また1960年代に入るとテレビドラマにもその題名で登場して人気番組となり、当時日本でも放映された。しかしルート66はその後現在のインターステートハイウェイにとってかわられ、1985年にはアメリカの公式の地図からは姿を消してしまった。

今では古きアメリカを偲ぶ「ヒストリック・ルート66」として保護されている。実際は州道や名もない私道であったり、あるいは山の中やゴーストタウンに迷い込んでいったりして、かつてのルート66を正確にたどるのは中山道の旧道をたどるように難しい。アメリカの宿場町には古い空き家や看板、錆びついたガソリンスタンド、クラッシック・ムービーに出てきそうなモーテルやレストランなどがあって郷愁をそそる。それらが手入れされないで雨ざらしになっているのが、中山道の宿場町とのちがいであった。

セントルイスからはインターステート44号線でオクラホマに向い、オクラホマ・シティから40号線にのりかえる。それがほぼ旧66号線の新道にあたる。

インターステートの番号は一定のルールに従って決められている。基本的に東西に走るものが偶数、南北に走るものが奇数である。東西に走る道路で〇で終わっているものと、南北を走る道路で5で終わっているものは、その中でも幹線であることを示す。つまりルート44はルート40よりもマイナーな道である。また、東西を走るものは北に行くほど、南北を走るものは東に行くほど数字が大きくなる。従ってルート40は、帰路にエルパソを通った最南のルート10よりも北にある。なお支線は三桁になっていて下二桁が元になっている幹線道路を示す。


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オクラホマ

ミズリー州を南西に下ってオクラホマ州に入る。インディアン語でオクラとは「人」ホマとは「赤い」を意味し「赤い人」、つまりインディアン自身のことを意味する。かってアパラチアの緑豊かな森に住んでいたインディアンは1830年代、白人の西進にともなって大量にこの地に強制移住させられた。14000人ものインディアンが辿った苦難に満ちた長い道のりは「涙のトレイル」と呼ばれている。オクラホマにたどり着いたのは1万人にも満たなかったという。1970年の国勢調査ではオクラホマ州に35部族、約10万人のインディアンが居住しており全米最大の規模である。

ちなみにアメリカでは「インディアン」は差別的なニュアンスで受け止められるため「ネイティヴ・アメリカン」(先住アメリカ人)と呼ぶのが習わしである。渡来人・入植者・侵略者・流刑者などかたちは様々であるが、これら後住者と先住者の構図は他にも多い。中南米のインディオはアメリカインディアンよりも高度な文明を築いていたものを、スペイン人が悉く破壊してしまった。ヨーロッパにおけるケルト人も先住民であった。インドの南部に住むドラビダ族はインダス文明の担い手だったといわれている。20世紀最後のオリンピックとなったシドニー大会で、アボリジニという、オーストラリア先住者がようやく世界的な認知を得た。これも旗手をつとめたアボリジニ出身の女子4百メートルの金メダリストがいなければどうだったか。

石油の町タルサを通ってオクラホマの州都、オクラホマ・シティに着く。ここの大学にヨーロッパ旅行で知り合ったロウアンとキャシーが通っていた。事前に連絡をとって5ヵ月ぶりにであうことになった。小太りで年の割にはおばさんのような落ち着きのあるロウアンはロースクールに通っていて弁護士になるのだそうだ。キャシーはまだ学部生で、人なつっこいアメリカン・ガールであった。キャシーの自宅でお茶を呑みながらひとしきり旅の思い出話や仲間の近況、日本の話などをした。先日キャシーのお父さんがはじめて電子レンジを買ってきた。それでビーフステーキをつくったのだがうまく焦げ目がつかなかったと、楽しそうに話してくれた。

この町に「国立カウボーイ栄誉殿堂・西部伝統文化センター」がある。入口に「(涙の)トレイルの終わり」と題された大きな彫像が立っていた。尾も頭も下げた疲れきった馬の背に、同じく首を深くうな垂れて疲弊しきったインディアンが力なくまたがっている。右腕に抱えた槍は重みに耐え兼ねて今にも地面につかんばかりである。何千キロもの道のりを歩かされて幸運にもオクラホマにたどり着いたインディアン達はこのような姿だったのであろう。

この彫刻は涙のトレイルの終点を意味するだけでなく同時に、インディアンにとって白人との戦いの究極的な敗北と、白人にとってのフロンティアの消滅をも意味している。この像が「インディアンの殿堂」でなく「カウボーイの殿堂」にあることがそれを象徴している。

正確にいえばインディアンの究極的な敗北もフロンティアの消滅も、白人の世界がミシシッピ川以東に確立したという意味であって、ミシシッピ川以西の新しい西部でのインディアンと白人との戦いはそのときから本格的にはじまるのであった。1849年に始まったゴールドラッシュがそれを加速したことは間違いない。新しい西部でも白人の欺まんと暴力でインディアンはそのつど土地を収奪され、よりへんぴでより狭い特別保護区に隔離されていくのである。政府が公にフロンティアの消滅を宣言したのは1890年の国勢調査報告書においてであった。

この辺りからニューメキシコまではグレイト・プレーンズといわれる大平原地帯で、カウボーイが牧草を求めて牛の群れを追っていたところである。一日ドライブをしても景色が変わらないのはアメリカでは不思議ではない。ミシシッピー川とローッキ山岳地帯の間は景色が砂漠であれ草原であれ小麦畑であれ、ちょっとやそっとでは風景はかわらない。

夜の宿は、日が暮れて最初に出てくるモーテルのサインを頼ることに決めていた。その日たどり着いた所は民家が20軒ほどの小さな町の、素泊まり宿のようなモーテルであった。町の道路を走る車は、乗用車よりも小型トラックの方が多い。食事ができそうなところはただ1軒で、煉瓦造りの真四角な建物の壁に「カルのカフェ」と大きく書かれた看板が貼り付けてあった。入口には「EAT 創業1946年、NO BEER」と無駄のない立て看板があった。

中に入ると客は総てが地元の人々で、私たちに好奇に満ちた視線を向けているのが感じ取れた。アジア人などこの町に来たことがないのであろうか。ジェイムズ・ディーンの遺作となった映画「ジャイアント」の最後近くのシーンで、ロック・ハドソンとエリザベス・テイラーがメキシコ人の嫁と孫を連れて入った田舎のレストランで、人種差別を受けて正義に目覚めるシーンがあったが、私たちもひとつ間違えれば同じ扱いを受けかねない不安定な空気を感じた。好奇と差別は紙一重である。

翌朝早く眼が覚め外に出たときはちょうど朝日が地平線から昇るところで、冷たく乾いた空が真っ赤に焼けて、二日目の出発を見事な光景で見送ってくれた。

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アマリロ

インターステート・ハイウェイ40号線をさらに南下して、テキサスの北部を西に進むと牧畜産業の中心都市アマリロにくる。この辺にくると土地は荒涼としていて、ハイウェイーに沿って電線が走っているだけで他に何も見えない。セントルイスからルイジアナに向ったときはハイウェイの両側に緑の大地が続いていたが、ここの土は乾ききっている。

ハイウェイの傍に「ディクソン・クリーク・ランチ」という立て札が目にとまり、土埃が舞い上がる田舎道を入ってみることにした。ランチとは大牧場という意味である。着いたところには赤くペンキで塗った鉄パイプのフェンスと門があるだけで馬や牛のいる気配さえない。フェンスはしばらくすると有刺鉄線にかわりそれはどこまでも続いて地平線に消えてしまっている。

この土地は1882年に英国の畜産会社が開発し、1903年家畜業者の大物であるバーネットという男が買い取った。立て札の最後は、「バーネットはこのランチを1905年、セオドール・ルーズベルトの狼狩の場として供した」と締めくくっている。なんともスケールの大きなテキサス好みの話しであった。

なおこの近くにはレッド・リバーの水源地があり、河はそこからダラスを貫けルイジアナのバトンルージュの手前でミシシッピー川に合流している。ジョン・ウェインが映画「赤い河」で、一万頭の牛をテキサスからオクラホマを縦走してミズリー州まで運ぶキャトル・ドライブの過程で、牛の大群とともに渡る河がこのレッド・リバーである。映画の内容はどうという事はなかったが、テキサスの広さとカウボーイのダイナミックさを知るにはふさわしい映画であろう。とくにその主題歌は「ローハイド」とともに好きだった。

オクラホマとテキサスにかけて単調な風景にアクセントをつけていたのはまばらに見える石油採掘リグであった。大きなツルハシのような鉄の固まりがポツンと一人でシーソー・ゲームをしているように見える。アマリロの手前、パンハンドルという小さな町にアメリカ風の立て札がたっていて、この地区で初めて回転式リグが使われた事を紹介していた。テキサスの三人の石油採掘業者が1923年に設置したもので、その油田は「バーネット・ナンバーワン」と名づけられた。パイプの直径は16センチとある。

近づいてみるとカマキリが針のようなストローで地下水を吸い上げているようにも見えるし、シーソーの棒が水平になった瞬間はやせ細った木馬のようにも見えた。地下に刺されたパイプは非常に細く、ツルハシの動きはのんびりとしている。一回でどれほどの量の原油を汲み上げているのか、私が井戸がらツルベで汲み上げるよりも遅く見えて心細く感じないでもない。別の立て札には「バーネット・ナンバー・ツー」とあり、ガルフ石油会社がバーネットの所有する「ディクソン・クリーク・ランチ」のなかに発見した油田である。

テキサスの荒野の風景は多くの西部劇の他「ジャイアント」でも見ることができる。その映画のなかで大牧場で働くジェット(ジェームズ・ディーン)が水飲み場の近くに与えられた小さな自分の土地に黒い液体を見つける。彼が体中を黒ペンキで塗りたくったようにして地面から吹き上げる原油と戯れるシーンは感動的であった。この映画は古い西部の代表である家畜業者と新しい西部を象徴する石油資本との世代交代を描いたものでもある。

まさにロック・ハドソンはバーネットを演じ、ジェームズ・ディーンは石油採掘業者やガルフ石油資本家を演じていたのである。蛇足ながら、しかし実世界の二人のヒーローは共に悲劇的な死を迎える。ジェームズ・ディーンはこの映画撮影終了直後の1955年、愛車のポルシェに乗ってこの世を去った。その30年後ロック・ハドソンは流行の兆しをみせていたエイズに敗けて死んだ。

地図をみるとアマリロの北20マイルのところにメレディス湖がある。国立公園とも州立公園とも書いていなかったが、湖があればそれなりの景色を期待できるだろうと思って寄ることにした。赤レンガを粉にしたような大地をゆるやかに下っていくと河を堰きとめてできたような湖にでた。たいがいの湖は丸みをおびているのにこの湖はヒトデのように入りくんでいる。湖岸には黄ばんだ枯れ草が生き長らえているだけで木も建物も人も見えない。ただ青い水と赤い土が見捨てられたように横たわっていた。キャニオンのでき損ないといえなくもない。

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サンタフェ

ニューメキシコにはいったところで、トレイディング・ポストで休憩をとることにした。軒先に、水牛の角を干し柿のように吊るしている。商品を手近に見ると小さな象牙を左右につないだような立派なものである。私は1mほどのものを記念に買った。セントルイスを引き上げるとき、本や衣類や食器などすべての身の回り品を郵便荷物で送り返したのだが、残念ながらこれだけが着かなかった。税関で没収されたのか、角の先でダンボールが破れ、見つけた者が抜き去ってしまったのか、気に入っていただけに惜しい。

ニューメキシコにはオクラホマと同じくインディアンの居留地が多い。土地はほとんど砂漠といってよく、アルバカーキーとサンタフェ以外には町らしい町もない。遠景が山深くなるころにはハイウェイに雪が落ちるようになってきた。確実にロッキー山脈に近づいている。ニューメキシコ最大の都市アルバカーキーに着いた時は10センチの積雪であった。アメリカのハイウェイの雪対策は万全で、塩を惜しみなく撒き散らすため、スノータイヤを付けていれば20センチの雪でも運転にさしつかえはない。

アルバカーキーの北50マイル(約80キロ)のところにニューメキシコ州都サンタフェがある。サンタフェは標高2100m、富士山の七合目あたりと同じ高さにある。黄金の土地、エルドラードを求めて北上してきたスペイン人により1609年に築かれ、サンタフェ(聖なる信仰)の場所として栄えた。1821年メキシコの独立とともに地権はスペインからメキシコに移ったが、1846年の米墨戦争によりアメリカの土地となった。

この土地はもともとプエブロ・インディアンの住処で、スペイン人がインディアンの遺跡にある建築をまねて作り上げたアドビといわれる背の低い土造りの家が並んでいる。アドビとは土塀のことで、泥と藁を混ぜた煉瓦を積み重ねたものである。かどはすべて丸みを帯びて大きな箱型のかまどのようにも見える。

サンタフェはニューヨークに次ぐ芸術の町としても有名で、気候の良さとインディアン文化のエキゾチックな雰囲気に惹かれて数多くのアーティストが住む。女流画家、ジョージア・オキーフもサンタフェに移り住んで砂漠に咲く花の拡大絵を多く残した。私たちがロスアンジェルスにいたころ、大学にはいって初めてのクリスマス休暇で帰ってきた明子がなにを思ってか、二人へのプレゼンントだといって『One Hundred Flowers』というジョージア・オキーフの、新聞の片面ほどもある大きな花の作品集をくれた。ジョージア・オキーフは1986年、98の長寿をサンタフェにて全うした。

サンタフェはアメリカ有数のショッピングの町でもある。そこに行けばインディアン市場があり竹細工のかごや編み物やトルコ石の美しいインディアン・ジュエリーが軒を飾っているはずであった。しかし道路は北に進むにつれ雪が深くなり塩の威力も追いつかなくなっている。あと20マイルというところで雪は30センチを越えハンドルをコントロールできなくなって、魅力的であろうサンタフェの町を断念することにした。

15年後になって宮沢リエが写真集出版のためにこの町に来た。私はニューヨークの紀伊国屋で発売直後の
「サンタフェ」と題したその写真集を買った。そこには黄土色のアドビつくりの家やペインテド・デザートらしき風景もきちんと写っていた。その後ロスアンジェルスを離れる時、私は彼女と、とあるすし屋で出合ったのだった。

日本に帰ってきて本を整理していたとき三冊の写真集がでてきた。子供が大きくなってきたので島田陽子とマドンナの写真集は資源ゴミに混ぜて捨てることにしたが、『サンタフェ』だけは残してある。

アルバカーキーに引き返す途中、サンディア・インディアン居住地区内に世界最大というインディアン・マーケット・センターがあったので、サンタフェでのショッピングにかえて、そこで買い物をすませることにした。店ではインディアンの女の子が控え目なはにかみをたたえて宝石や鎖などを売っている。なにか買わずにはいられなくなって、妻のために青をベースに白と緑が入り混じったトルコ石のブローチとブレスレットを買うことにした。トルコ石は単色でないところが好きである。石の表面も完全な球面でなくて、虫がくったような小さな窪みやそら豆のような歪みがあるのが自然で良い。私の分として毛皮を着て弓矢を携えたインディアンの子供の人形を買った。

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大陸分水嶺

ニューメキシコにはいってからハイウェイを西へ進むにつれ、まわりの景色が次第に変わってきているのに気付く。メサという台地が途切れることなく現われてくるのだ。その台地の上にインディアンが住んでいる。ハイウェイはそのメサを避けて造られているがそれでも大地そのものが大きな波状をえがきながらローッキー山地に向って標高を調整しているようである。なだらかな長い登り坂のあとには平地がしばらくつづき、そのうち次の長い登り坂が始まる。

登り坂はあまりにも緩やかですぐには気付かない。それを気付かせたのは私のフォルクスワーゲンであった。私を追い越す車はスピードを落とすことなく80マイルで疾走つづけるが私の車は徐々にスピードを下げ、時速40マイル(約65キロ)より速くならない。40マイルといえば町中を走る速度で、ハイウェイーでは最低速度であって、これ以上遅くなるとパトカーに、もっと速く走れと怒られる。セカンド・ギアに入れてもガソリンを食うだけで結果は同じであった。ようするにピストンが摩耗していて馬力が出ないのだ。40マイルが60マイルにもどると坂が終ったのだと知る。

アルバカーキーからグランツを過ぎギャラップの町の手前にギャラップ峠がある。この峠はアメリカ大陸分水嶺になっていて、標高2600m、ルート40の最高地点でもある。これより西に降る雨は太平洋にそそぎ、東に降った雨は大西洋メキシコ湾に集まる。

峠の向こうにあるギャラップの町はカウボーイとインディアン文化の町で毎年夏になると各地のインディアン部族が一堂に会して四日間の全米インディアン祭りが繰り広げられる。その町へいくにはこの峠を越えなければならなかった。車に追い越されるたびに恥ずかしい思いをしながらようやく「コンティネンタル・ディヴァイド」の標識にたどり着いた。そこには駐車場が設けられており、車を止めて記念写真を撮ったのは勿論のことである。帰りにこの峠を通ることはないが南を走る10号線にも大陸分水嶺はあるはずだ。ただロッキー山脈は南にいくにしたがって低くなっているので、帰りの峠は何とかなるだろうという目途はついた。

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ペトリファイド・フォレスト国立公園

リゾナ州境に近づくにつれ道路の両側の荒野に赤い岩肌が多くなり、褶曲した地層が露出している。地図にペトリファイド・フォレスト(化石の森)国立公園と記されており公園区域のなかにペインテド・デザートとあった。雪が20センチほど積もっており、赤茶色の岩肌と白との二色刷りの世界である。


ハイウェイーを降りて標識に従ってビジターセンターエリアまで進んでいった。2億年も前の時代、土地の陥没により周囲から流れ込んできた水流で針葉樹林がなぎ倒され、土砂に埋もれた樹木が数千年の間に石化したものだという。底の極めて浅いキャニオンのようにも思われたが、河という線が作った造形ではなくて、大地の気まぐれな上下運動がつくりだした、面の造形美であった。この世の景色とも思われない雰囲気は、どこかの惑星の荒れた地表の風景を連想させる。

公園内には6百年まえアナサジ・インディアンが住んでいたという、レンガ累壁だけが残るプエルコ遺蹟や、アゲイト・ブリッジとよばれる、両端が岩に埋もれたままの30mもある大木の化石など、見所をつくることを忘れてはいなかった。虹の森と呼ばれている一帯には大木の化石が散乱していた。雪が薄っすらと化石を覆っている。雪が解けた晴れた夕方であれば、層ごとに異なる色が夕日を受けて刻々と変わっていく、古代の大自然の景観を楽しめることができたであろう。

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グランド・キャニオン国立公園

アリゾナのフラグスタッフという小さな町がグランド・キャニオンへの入口である。アリゾナは16世紀にスペイン人の探検を受け18世紀には各地に要塞が建設された。その後短期間のメキシコ支配を経て米墨戦争でアメリカが買収したことはニューメキシコと同様である。アリゾナにはナバホ・インディアンが居住する。なおグランド・キャニオンは1540年にスペイン探検家によって発見されたといわれているが、それは白人にとってのことで、インディアン達は昔からそこに住んでいた。

そのグランド・キャニオンに来た。子供の頃に見たアメリカの自然といえば、ナイアガラの滝とこの大峡谷である。湖ごと別の湖に流れ落ちる。裂けた大地が何百キロも続き飛行機でなければ谷を越えられない。こんな自然がアメリカにはあるという。いくら想像をたくましくしても子供心にはその大きさが想像できなかった。小雪まじりの南壁に立った妻と私は自然の畏怖に縛られてしばらく無言で立ち尽くしていた。「すごーい!」と言ってみたところで、言い尽くせない空しさが残るだけだ。おもむろにカメラを構えたのは数分してからのことであった。広角レンズでも入りきらない。地層の標本のような地質時代の風景ではあるが、ペトリファイド・フォレストのように殺伐とした単調さではない。淡い水彩画のように色彩が豊かでその立体的な複雑な造形は神秘的であった。雪空から時折のぞく日の光にあたった峡谷の肌は神がかってさえ見えた。

全長440km、幅は平均16km、南壁からの深さは1500mで伊吹山をひっくり返して放りこんでも余裕がある。国立公園の面積は5000平方キロで滋賀県の1.2倍、最高地点の標高は2700mという。つまり中山道を日本橋から碓井峠、木曽路を通って美濃鵜沼の宿場までの道のりを、あるいは東京駅から京都までの直線距離を、日本アルプスを切り取って逆さまに入るほどの深さに長野県の大地を削ったと思えばよい。小学生に想像せよといっても無理なスケールである。

グランド・キャニオンが世界の自然七不思議の一つに数えられているのも納得できる。それらは今も厳然としてある、紛れもない大自然の遺産なのだ。私はようやくその一つを見た。


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ガス欠

世界自然七不思議の一つに、わずか一時間の敬意を表しただけで別れを告げた。雪のキャニオンを見に来ている観光客はほとんどいない。雪がしきりに降り出していた。インターステート40に戻ってそこから17号線を南に下ってフェニックスまで行く予定であった。辺りが暗くなってきた頃ガスの目盛りが空の赤線にきていることを知りつつ、なるべく距離をかせごうとして幾つかのインターチェンジを走り過ぎた。

普通、赤線からでも数10マイルは走れるのである。私には、経済的には何の合理性もないことを知っていながら、ぎりぎりまでガスを使い切って給油するとき、なんとなく得した快感があるのだ。この非合理性は説明することが難しい。給油が面倒くさいからというのが思いつく唯一の理由だ。が、考えてみれば少々余裕をもたせてガスステーションに寄ったとしても一週間のドライブで給油回数が二回も増えるわけではなかった。妻が言うようにそれは横着というものだといわれてもしかたない。ついにその横着の代償を払うことになった。

今度こそハイウェイを降りると決めてから、インターチェンジが一向に見えてこないのである。ようやく見えた出口の標識には給油スタンドのサインが無かった。次の出口まで10マイルとある。雪と寒さと暗さが不安をつのらせ、私はついにギブアップしてそのガスステーションのない出口を出た。小さな村があるだけの細い道に入り、灯かりの見える民家のドアを叩いた。もしかすればポリタンクに入れた予備のガソリンを置いているかもしれないと、祈る気持ちでたずねたが、シナリオ通りにはいかなかった。

出てきた主人はすまなそうな顔つきで同情してくれた。今となってはハイウェイにもどってあと10マイル走るしかない。立ち往生すればハイウェイ・パトロールがやってくるまで待てばよいのだと、開き直るとやや気が楽になった。道路から家までのアプローチは車一台分の幅で雪は30センチくらいあったであろうか。バックギアでアプローチを退行するとき後ろの車輪を溝にはめてしまった。スリップして輪が這い上がらない。幾度もトライするのはガスを浪費することになるので早々にあきらめることにして、もう一度同じドアを叩きにいった。事情を話すと、その親切な主人は自分の軽トラックを持ち出してロープを結わえて引き上げてくれた。最初にドアを叩いてから10分ほどのでき事であったが、これほど侘びしい経験は過去になかったと思う。主人は私たちが雪の道を無事にバックしてメイン道路に出るのを見届けてから、家のなかに姿を消した。
――全く日本人はドライブの仕方も知らない――と家の中で家族と話合っているのではないかと、私はかなり被害妄想に陥っていた。

ハイウェイに戻って、走行距離計を祈るように見つめながら最も燃料を消費しない速度で走った。早くもなく遅すぎることもない速度が最効率なのである。燃料タンクの針は左にくっついたままで動かず、空を示す赤ランプをつけたままである。命拾いをした気持ちで次のインターチェンジを出た。助手席の妻はまだ黙ったままで私の横着を咎めている。

フェニックスに向かう道は長い下り坂で、フラグスタッフとフェニックスでは15度の気温差がある。町に近づいたころにはもう雪はなかった。夕闇のなかで車の左右をなにか黒い柱のようなものが次々に飛び去ってゆく。やけに太い電柱が狭い間隔で立っているなと思ったのはサボテンであった。いままで知っていたサボテンのイメージとはだいぶちがっていて、木のように高い。幹には大きな丸い穴があいているのもあって、それは小鳥の巣にしては大きすぎた。フクロウなのか、かなり大きな鳥の棲み家なのであろう。肘を曲げて腕をあげたような枝をだしていて、巨大なかかしのようでもあり、サボテンの姿は愛敬がある。

行き当たりのモーテルに飛び込んで命拾いの夜が過ぎた。

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フェニックス

ェニックスは退職後の富裕家の住宅地として人気があり、避寒地リゾートとしても知られているが、観光資源はなにもない。昨夜シルエットでみた背の高いサボテンを市内の砂漠植物園で再確認する。ローソクか電柱のように直立しているこの愛らしい植物はサグワロ・サボテンというのだそうだ。そのほかにも刺のあるスイカのようなものや、海中にゆれる海藻のようなものなど、サボテンの種類はじつに多い。タコ・サボテン、樽サボテン、像サボテン、オルガンパイプ・サボテン、トーテムポール・サボテンなど、好きなように名をつけているようであるが、言われてみるとうまく言ったものだと感心させられる。私の一番気にいったのは「砂漠の老人」で、サボテンの針が白い長い髪の毛のように締まりなくもやもやしているのである。全般にサボテンは触れば痛いが眺めるぶんには愛敬があって好きだ。

北に向って40分ほどいった「ローハイド」いう小ぶりの西部村に寄ってみた。1880年代の町並みを復元した、食事やショッピングが楽しめるちょっとしたレジャー施設である。時代的にいえば明治村のようなものだ。幌馬車が輪になって連ねられている。砂金の採取や馬蹄の鍛冶、ワゴンの輪や軸の修理などの実演を見せてくれて一時間ほど休憩するには適当な場所であった。


ツサン

ェニックスから190km東南にツサンがある。一攫千金を夢見る山師や荒くれカウボーイ達の活躍した古い西部の町である。ツサンから100km南にいくとそこはメキシコ、ソノラ州である。ソノラ州とツサンにかけての一帯はソノラ砂漠で、その一部、ツサン・マウント公園内にアリゾナ・ソノラ砂漠博物館がある。建物はほんの一角に存するだけで殆どが青空の下にある。また、物だけでなくてガラガラ蛇、コヨーテ、フクロウ、イーグル、トカゲ、ヤマネコなどの動物もいて、博物館と動物園が一体となったような施設である。

この地方に居住するピマ・インディアンの干からびた土造りの住居跡やつぼ類が展示してある。特にピマが作るかご製品は全米でも最高のものとして名高い。園内の丘から見渡すサグワロ・サボテンの林と、その背後、遠くに低く横たわる淡い灰青色の山並みとピンク紫の砂漠の色合いは、ともすれば荒涼とした単色の無味乾燥な砂漠の印象をくつがえすに十分であった。

そこからあまりはなれていない距離に
オールド・ツサン・スタジオという映画村がある。コロンビア映画会社が1939年に『アリゾナ』という映画のロケにつくったのが始まりで、懐かしい西部劇映画にでてくる町並みが再現されている。観光客には駅馬車に乗せて町を巡ったり、『真昼の決闘』を真似たようなガンファイトやスタント演技をみせてくれる。映画やテレビドラマのロケは現在も行われていて、いままでに数百本にのぼる作品がつくられたということである。

案内書に書かれているもののうち私の知っている古い映画を挙げると、『セイント・メリーの鐘』、『マーク・ゾラ』、『O・K牧場の決闘』、『西部への道』、『エルドラド』、『アラモ』、『リオ・ブラボー』などがあった。『ガンスモーク』はテレビで知っている。ロケ中でも観光客は歓迎されるそうである。今にも家かげからライフルを持ったバート・ランカスターやカーク・ダグラスが飛び出してきそうな雰囲気であった。

ちなみにここから東南に130kmいったところ、テュームストーンという町にO・K牧場がある。1881年に実際あった話らしい。ただ実際の決闘は2分で終わったようだ。映画のクライマックスとしては短すぎるので、3倍の時間をかけて丁寧にやったということである。

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ハイウェイ・パトロール

ルート10にもどり東に向って帰り道をひた走る。往路のルート40より300kmも南を走るインターステート10号線は、冬でも雪がふることはなく、暖かで窓を閉め切っては暑いほどだった。行き交う車も少ない四車線の高速道路を快調に飛ばしていたとき、急にハンドルをとられてスピードが落ちてしまった。本能的に緊急ランプを点灯させて車線を変えずに減速する。そして後続の車がないことを確認して一番右端のイマージェンシー・レインに移動する。車を降りて調べると後輪右側のタイヤが無残にもベロンベロンに引き破れていた。

グランド・キャニオンに行く前ではまだタイヤの溝はあったのにどこでなくしてしまったのだろう。ガス欠のときのスリップのシーンが頭をかすめた。ハイウェイでのタイヤバーストはよくあることで、近くにも黒いゴムのこすり跡やただれたタイヤの破片がガードレールのそばにはき寄せられていた。

トランクをあけ、車を買ったときについていた最小限の工具を取り出してタイヤ交換を始めたのだが、ナットが錆付いているのかレンチに体重をかけてもびくともしない。ガス欠の夜とは違って今度は日も高く暖かかったので、あせらず誰かが助けてくれるのを待つことにした。30分ほどしてようやく近寄ってきたのは赤いランプを点滅させたパトカーであった。

私が中学生のころ、日本ではテレビ局がまだ放送時間帯を埋められるだけの番組制作能力がなくて、アメリカのテレビドラマを盛んに輸入して放映していた時代があった。『ルート66』もそのうちの一つである。好きな番組のなかに
『ハイウェイ・パトロール』というシリーズがあった。ハイウェイーを舞台としたアクションものであるが、はでなカーチェイスやタイヤを狙いすました射撃シーンやアメリカの雄大な高速道路の風景が好きでよく見ていたものである。

アメリカにきて実際にみたハイウェイ・パトロールは決してそのようなスリリングなものではなくて、ガス欠のドライバーに給油したり、病人がでた車に救急車を手配したりする地味でやさしい人たちなのである。ただタイヤ交換までする例は、よほどの年寄りドライバーのため以外はないのではないか。

私が、ナットに空しくすがりついたままのレンチを指差すと、太腕のたくましいその警官はためらうことなくそのレンチをとりはずし、パトカーの中から大きな十字型のレンチを取り出してきて、両手で思い切りグイっと力をいれた。10センチも動けばあとはかんたんである。はずしたあとのボルトを私に見せて溝がつぶれていることを教えてくれた。警官は私が積んでいたスペアタイヤを取り付けたあと、「左のタイヤも坊主になっているから次の出口で必ず後輪二つともタイヤを換えるように」と指示を残し、屋根の赤ランプを消して去って行った。

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ホワイト・サンド国定記念物

再びニューメキシコに入る。サンタフェやアルバカーキーがあった北部に比べ、ニューメキシコの南部はいよいよ何もない。それをいいことにして連邦政府はここに原爆実験場やミサイル基地を作ってしまった。サンタフェの北、ロスアラモスという山中の町で完成した原子爆弾はホワイトサンドの実験場に運ばれ1945年7月16日、実験は無事成功した。広島に投下する三週間前のことである。ミサイル基地にはカモフラージュされた地表のカバーが水平に開くと、地下につくられた発射台からミサイルが直接打ち上げられるようになっている。それに隣接してホワイトサンドと呼ばれる世界最大の石膏砂丘がある。鉄条網で境界が設けられていて発射実験のときは道が閉鎖される。

ホワイトサンドはその名の通り白砂糖のように木目の細かな砂丘である。面積は700平方キロにおよび琵琶湖に等しい広さのなかで、輝くような白い砂丘が波打っている。観光用に板の歩道が設けられているが、砂丘のなかにも自由に入ることができる。駐車場にはベンチも置かれていてそれらはヨットの帆のような防砂壁に囲われていた。標高1200mにあるこの盆地は夏は40度近く、冬は氷点下20度近くにも下がるという苛酷な気候に加え、南からの強い風で砂丘は年に10mも移動する。裸足で歩くとさらさらとして気持ちがよい。あまりにきれいな白砂で、甲子園の土を袋に詰める高校生のように、私も一袋手ですくって記念に持ち帰ることにした。


ロズウェルUFO事件

ここからあまり遠くない所にUFOが降り立った。場所はホワイト・サンドからさらに100キロあまり東にいったチャベス郡の町、ロズウエル。時は1947年の七夕の日、私が歩き始めた1歳と3ヶ月の時のことであった。
地元の新聞が、大見出しで書いた。

「ロズウェル陸軍航空基地の情報部が、空飛ぶ円盤を捕獲した」

この事件には多数の目撃者がいた。UFOは巨大なパンケーキのような形をしており、中には4体のE・Tが乗っていた。1体は生存していたが、3体は下半身がくずれて死んでいたという。現場では、兵隊達が墜落したUFOの残骸を片付けたが、一部が残って地元の人たちに知れてしまった。

「ロズウェルに墜落した物体は、軍事用の気球だった」

軍は公式に発表した。
この事件の顛末は軍所属のあるカメラマンによって撮影されていた。彼の手元に保管されたままになっていたフィルムは、48年後の1995年、彼によって売却された。メディアの手にわたったそのフィルムは数ヶ国の劇場で公開された。そのフィルムにはUFOの残骸のみならず、回収されたE・Tの解剖現場まで写っているという。生存していた1体の行方については依然として謎である。アメリカ政府は今日に至るまで沈黙を守ったままである。その事件から50年以上たった今もロズウェルのUFO博物館を訪れる人は絶えない。

UFOと宇宙人は現代世界七不思議の一つである。ロズウェル事件が人々の関心を一気に高めたことには疑う余地がない。以来、メディアや学会、政府までもを巻き込んだ地球外知的生物の探索は熱を帯び一向におさまる気配がない。政府は、落下したUFOの残骸と思われたものは、
モグル計画での、打ち上げに失敗した気球の残骸であるという最終調査報告を公表し、世間の好奇心に終止符を打とうと努めた。

一方では21世紀に入って、ロズウェル事件を題材にした本がベストセラーとなり、そのテレビドラマが若者の間で大ヒットした。完全な人間の姿をした宇宙人高校生のSFロマンティックサスペンスである。原作は
『ROSWELL HIGH』日本放映版のテレビドラマ題名は「ロズウェル 星の恋人たち」という。

人々の執拗なまでのE・Tに対する関心は、彼らの、E・Tの存在を信じたいという願望の反映でもある。願望どころか、確信の表われといってもよい。この広大な宇宙である。単純な確率論的推測からしても、E・Tがいないことの方がおかしい。問題は、有無でなくて、彼らと接触できることの可能性である。

私は高校時代、宇宙論的人生論という一文を記し、そこで、われわれの最先端の科学理論や論理体系がいかに独善的であり得るかということを書いた。
我々がE・Tを見た、見ないと言い出した何百年も昔から、彼らは我々の知りえない方法で、はるか彼方から地球人を観測していたかもしれないのだ。我々が現在彼らに会いたがっている願望も承知しているかもしれない。そして、彼らの方で、地球人とは接触するに値しないと結論したのかもしれないのである。そうであれば、我々の願望は永遠に満たされることのない宇宙的片思いである可能性がある。

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ホワイト・サンドから次の目的地カールスバッドへいくにはルート88で一つ峠を越えねばならなかった。私の愛車のスピードは20から10に落ちそれでも減速していった。今までにない急勾配を上がっていることに気がついた。いよいよ私のフォルクスワーゲンでは登り切れない坂道が来たかと、非常手段を考えることになった。まずエンジンを切らさないこと。ローギアで安定的に進むこと、なるだけ車体を軽くすること、等である。

速度が5マイルを切ってきたので私はドアをあけ、上体を外にだしてタイヤの動きを実測することにした。5マイルを下回ると速度計の精度が落ちて、1マイル単位の計測はメーター針では分からなくなる。殆ど止まったかに見えていてもタイヤは結構回っているものである。車体の負担を軽くするため妻をおろすことにした。

車の速度は歩く速さとたいして変わらない。やがてそれよりも遅く感じたので、妻に後ろから車を押すように頼んだ。私はハンドルを正面に保ちながら左足を外にだして路面を蹴る。車を相手に片足スケートに乗っているような格好である。妻は押すどころか車から離れていっている。トラックが一台通り過ぎて助手席の男がいぶかしそうな顔を窓からのぞかせた。時間にして10分くらいであったろうか、目にも峠の頂上であることがわかってきて、妻を車のなかにもどした。彼女は息を切らして顔を蒼白にしていた。結果として、止まりそうでありながらも妻が歩くよりは速く動いていたのである。妻はしばらく顔を仰向けながら呼吸の整うのを待っていた。



カールスバッド国立公園


ルート62沿い、ほぼテキサスとの州境に近いところに、この旅の最後の訪問地カールスバッド国立公園がある。カールスバッド国立公園はグワダループ山系の古生代の化石礁につくられた多くの洞窟群からなっていて、知られているだけでも85の洞窟があるという。なかでもカールスバッド洞窟は洞穴や鍾乳洞の大きさやその多様さにおいて全米屈指のものである。

エレベーターで地下深く降り、そこからガイドテープを聞きながらよく整備された洞内を見てまわる。上からお化けのつららのように垂れ下がっているものや、足元からトーテムポールのように生えそびえているものなど、その形や色は実にさまざまだ。かすかな照明にもつややかな光を反射させている。幾層にも垂直方向に年輪を重ねた鐘乳は下から見上げると、きのこの傘の裏側のように見える。足元は数百万本ものローソクを溶かした状態になっている。雪をかぶった森のような石灰石の群れもある。

洞内の空間にはそれぞれ王の宮殿、女王の部屋、赤ん坊の部屋、緑の湖の部屋、ビッグ・ルームなどとニックネームがつけられていて特徴を表している。ビッグ・ルームは一方向五百メートルを超す巨大な空間で、透明な水をたたえた池がいくつも連なっている。1930年に国立公園として指定され1995年には世界遺産に選ばれた。

1986年になってこの公園内の500mもの深さに、レチュギヤ洞窟というカールスバッドを凌ぐ洞窟が発見されたらしいがそれはまだ一般には公開されていない。

カールスバッドは鍾乳洞や広大な地下室だけで知られているのではない。地方の言い伝えによると、およそ今から100年前ジム・ホワイトという若いカウボーイがきのこ雲の後を追っていくとある洞穴の入口にたどりついた。きのこ雲に見えたのは洞穴から飛び出してきたコウモリの大群だったのである。

5千年前から棲みついたといわれるコウモリの数は、1936年の調査では900万匹もいたとされているが、DDT殺虫剤が原因で1973年には20万匹にまで減少した。それでも10万匹をこえるコウモリが、夕方になると洞穴の出口から一斉に飛び出し、逆時計回りに旋回しながら砂漠の夜空へ消えていく光景は息を呑むものであろう。

夜明け前には次々と大空の八方から時速40キロで飛び降りてきて穴に消えていく。夏のシーズンにはこの見学のために朝食会が設けられるそうだ。私は冬の真っ昼間にきたからコウモリ一匹さえも見かけなかった。

ところでコウモリは私がこの世の中で一番嫌いな動物なのである。二番目があらゆる種類の蛇である。蛇は姿と歩き方が醜い。コウモリは声と顔がこの上なく醜いのである。狼のような耳に、目はキツネのようにつりあがり、鼻はブタのようにつぶれて、口が裂けるとドラキュラのような鋭い牙をむきだし、蛇のような細い舌を突き出す。誰の手違いでこのような悪魔顔を作り上げたのか。そのうえに、聞き苦しい嬌声をあげる。

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ホットスプリング国立公園

ルート10から20に入ってテキサス、ダラスを通り抜け、そこでルート30に移ってクリントン大統領の出身地であるアーカンサー、リトルロックに向う。リトルロックの手前70キロのところでハイウェイを降りてローカル道をすこし北にいったところに古くからある温泉街がある。

そこがアメリカ最小の国立公園「ホット・スプリング」である。どうしてもアメリカ人と温泉のイメージが結びつかず、どんなところか見ていくことにした。一時間くらいでアメリカの国立公園の一つをカウントできるのもわるくない。

元々は「温泉山」から流れ出る熱湯が岩をつたい、麓の一帯を硫黄その他の鉱質分でミルク色や黄土色に染めていた岩場であった。19世紀の半ばになってその存在が東部に知れるようになると観光事業家や近代財閥家などがおしかけ、岩場をとり囲むように豪華なマンションを建てるようになった。東部の人間は、同時に木々も豊富に移植して緑豊かな温泉街にかえてしまったのである。

この地は早くも1832年のとき、ジャクソン大統領によって特別保護区に指定された。それはイェローストーンがアメリカ最初の国立公園に指定されるよりも40年も前のことで、地元の人はこの土地を国立公園システムのなかでは最も古い地域であると誇っている。

瀟洒な石造りの家が立ち並ぶセントラル・アヴェニュー、俗称「バスハウス・ロウ(風呂屋通り)」には一月初旬というクリスマス休暇あけの時季的なものがあったのか、行き交う車はほとんど見かけなかった。20世紀初頭まで、温泉の治療効果を求めてこの町は活況を呈したが、その後効能に対する医学者の信頼が薄れるにしたがって町もさびれていった。国立公園の公式文書にはこの温泉の医学的効能書はない。やはりアメリカ人は温泉をも実利的にしか考えられないようで、――ひなびた山間でゆっくりお湯にでも浸かって……といった日本人の風雅さはなさそうである。

大西部観光はこれで終わりである。リトルロックで40と合流し、メンフィスでルート55を左に取って北上し、無事セントルイスにたどり着いた。走行距離は3800マイル、6000kmで、ほぼ本州一周のロング・フォルクスワーゲン・ドライヴであった。


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ルート66
1976年冬