ルイジアナはその領主をメキシコ、スペイン、フランスとかえ、最終的に1803年アメリカがナポレオンから買ったものである。
アメリカは1776年の独立以来、森に住むインディアンを追い散らしながらアパラチアを越えて次第に西進し、1803年にはフロンティアをちょうどミシシッピ川まで押し進めていた。他方、スペインが領有していた川の西側からローッキー山脈の東までの広大な土地は、1800年、ナポレオンによってフランスの領土となった。

これに脅威を感じた米国のジェファソン大統領はその土地の購入を決断し、交渉の結果フランスは8千万フラン(1500万ドル)で全ルイジアナを米国に売却したのである。米国の領土はこれで一挙に二倍以上に広がった。それ以後、川の中流にあったセントルイスはニュー・フロンティアの玄関として、一大発展をとげるのである。ワシントン大学はちょうどその50年後に創られた。


セントルイスからインターステイト・ハイウェイ55号線をただまっすぐ南に下ればニューオーリンズに着く。ニューオーリンズの手前100マイル当たりからスパニッシュ・オークが見えはじめ景色は南部の色彩を濃くする。ルイジアナだけでなくアラバマ、テネシーを含めたディープ・サウスとよばれるこの一帯は、南北戦争まで黒人奴隷に依存した農業産業の中心地であった。その一部大地主の繁栄と暗い歴史はあちらこちらに残るプランテーション・ハウスに今も痕跡をのこしている。

広大なコトン・フィールドを裏庭に、スパニッシュ・オークのトンネルを前庭にして立つ豪壮なプランテーション・ハウスは、いまにもビビアン・リーがひさしの大きな帽子を押さえて、玄関のドアから走り出てきそうな場景にふさわしかった。屋敷のなかも「風と共に去りぬ」の映画に出てくるような調度品が整えられている。ニューオーリンズにつくまでに五ヶ所以上のプランテーション・ハウスを訪ねたが、それぞれ違った趣をたたえて150年前の南部の繁栄を感じさせた。

ニューオーリンズの町はフランスの香りが強い。ジャズのふるさとでもある町の一角はフレンチ・クォーターと呼ばれ、植民地時代のフランス風建物が立ち並ぶ。二階のテラスは繊細華麗な黒塗りの鉄レースのフェンスで飾られている。通りには似顔絵描きや自分の絵を売るボヘミアンがたむろしていて、パリのモンパルナスのような光景である。薄暗い店の中からは絶え間ないジャズの響きが漏れ出てくる。陽気な黒人の老人が頬を風船のように丸く膨らませてトランペットを奏でている。セントルイスと同様の古き良き時代のアメリカがそこにもあった。

ルイジアナ州都バトンルージュに泊り、翌日一挙にセントルイスまで帰る計画であった。アーカンソーを北上していると左右にひろがるコトン・フィールドが延々と続く。綿の木には白い化粧花のような摘み残された綿がひっかかっていた。しばらく風景はそれしかない。妻はキャノンの8ミリカメラを構えて、窓からその風景を撮った。車で疾走しても窓の風景が変わらない証拠を残しておきたかったのである。移り変わらない風景を残すためには時間の軸に頼るしかない。私の趣味は二台のカメラに飽きたらず、動く被写体用にもう一台の四次元用カメラを買ったのだ。コダックの8ミリフィルムは時間にすると5分ももたない。今のビデオカメラのように、静物を写す贅沢はできなかった。

日もすっかり暮れてセントルイスまであと100マイルに近づいた時、ガスがきれて最寄りの出口のガス・ステーションに寄った。長距離ドライブをする時はガスを入れるたびに車回りを点検するのがドライバーの常識というものである。私はエンジンをかけ、外に出て車の前後左右をまわりながらタイヤ、ファンベルト、冷却水、ヘッドライトなどを見たあと、妻に方向指示器やブレーキを操作させて、後ろのランプを点検しようとした。ブレーキランプを見やりながら妻に「ブレーキを踏んで」と指示した時に、いやに大きな音がした。すぐに妻は「あっ、間違えた」といって足をずらして正しいペダルに切り替えた。ランプは無事ついた。

ハイウェイに戻るや、エンジンが滑らかなのに気がついた。上等のガスを入れたのかな、と半信半疑で運転を続けていたが音がやけに静かである。そのうちにスピードが落ちてきた。ヘッドライトの光まで弱々しくなってきた。ようやく何が起こったのかがわかった。しかしアメリカのインターチェンジはそう簡単には現われない。次の出口まで30マイル(50km近く)という間隔はざらにある。

バッテリーを節約するためにヘッドライトを消し、妻に懐中電灯をもたせて二車線の中央線を照らさせ、私はその線をまたぐようにして走った。3メートル先くらいまでしか光は届かないからスピードはだせない。後ろから来る車の光がバックミラーに入るたびに右側にもどり、追い越されるのを待って再び中央線をまたぐ。心細いながい徐行の末にようやく出口にたどりつき、ほうほうの体でガス・ステーションに飛び込んだ。あいにくそこには修理センターがなく、紹介してくれた近くの修理屋まで最後のヘッドライトを頼りにたどりつき、無事真新しいファン・ベルトにありつけた。

30分もしないうちにセントルイスの灯が見えてきた。この時の安堵感はジミー・シテュアート扮するリンドバーグの心境だった、といえば大袈裟だろうか。

休み明けに大学にもどって駐車場でエンジンをふかしていると、車の前部からキャリキャリという音がした。点検してみるとファン・ベルトをうけている金属の皿が割れていたのである。あの夜、取り替えてくれた修理屋には私の車にあったサイズのベルトがなく、似たもので代用したのであった。摩擦の力のコワサを知った。


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プランテーション・ハウス巡り
(ルイジアナ)
1976年春