ハワイ(1994年夏)  

ハワイ州は六つの主な島からなる。無人島だったハワイ諸島に、およそ1600年前、マルケサス島から二艇カヌーにのって4千キロもの海をわたってポリネシアンが入植してきた。800年前ソサイヤティ諸島から別のポリネシアンが到着し新しい支配者になった。1778年にイギリスの探検家ジェイムズ・クックがこの島にやってきた時は、およそ30万人ものハワイ人が住んでいて、カメハメハ王朝を作り上げていた。ハワイ王朝は1872年にカメハメハの血統が途絶えるまで続いて、その後血縁のないカラカウア王が選ばれた。彼は王権を拡張しょうとしたが、反抗する白人勢力に鎮圧される。

1898年、ハワイはアメリカの領土になり、1959年8月、アメリカ第50番目の州になった。

同じ年の1月、もう一つのアメリカ領が49番目の州になっている。カナダの北のアラスカである。それまで国旗の左上隅に6段の8つ星を配していたが、アラスカのために7段の7つ星にかえられた。ハワイの参加によって同年再び国旗のデザインが変えられ、こんどは5段の6つ星と4段の5つ星が交互に並べられることになって現在に至っている。

余計な心配かもしれないが、プエルトリコが51番目の州になれば、どんな星の配置になるだろうかと考えてみた。上下対称にする必要がある。一番単純な思い付きは、全部で49州であったときの上、下各1段を8つ星にすることではないかと思うが、さて。

話しはハワイにもどる。

オアフ島は、ハワイの八島の中で三番目の大きさで州全人口の80%がこの島に集中している。国際的リゾートのワイキキビーチがあるホノルルが島の中心である。アジアのバハマへ来たような、妙な錯覚を起こしそうだ。同じアメリカでもここは異国の地だ。アメリカ本土の人達はそう思って、バケーションにやってきている。ロスアンジェルスに比べると物価が高い。バブルの頃、多くの日本人が割高の別荘をここに買った。

この島は滞在型の人達がホテルや浜辺でリラックスするところで、たいして見て廻るところはない。観光には小型飛行機でハワイ島まで飛ぶ必要があった。そこに国立公園がある。
ハワイ島は州最大の島でまた最も新しい。二つの火山を中心に1961年、ハワイ火山国立公園が設立された。
地球上で最も巨大なマウナロア火山は一万立方マイルの地域を占め、標高は4100mに達する。海床からの隆起は9000mにおよびエベレスト山よりも高い。

キラウエア火山は世界でも最も活発な火山といわれている。
7000年にわたる火山の活動と進化は、海から隆起した不毛の地に植物を育て複雑な環境システムを作り上げた。二つの火山はいまでもハワイ島の土地を増やしつつある。ハワイ島の二つの火山は、大陸の火山の大噴火に比べて流動性に富んでいて溶岩の泉や川を形成しやすい。溶岩が海に注ぐところでは、海水が蒸発して蒸気が空高く舞い上がっている。風下に立つと硫黄の臭いが鼻をつく。咽るようで吐き気を催しそうな臭いだ。溶岩の赤みこそ確認できなかったが、蒸気の発生が間違いなく溶岩の流出を裏付けていた。
山の中腹から頂上にかけて、噴火でできたいくつものクレーターがある。大噴火直後は、真っ赤な溶岩の火の海だったろう。今は冷めて、干された田んぼのように、底はひび割れていた。

宿泊地のコナから火山に向うほぼ中間に島の南端、サウスポイントへの道がある。ハイウェイを離れて一車線の幅しかない細いローカルを進んでいると、遠くに風力発電のウインドタービンの群れが見えてきた。一台の対向車がきて、お互いフルストップして道を譲る。すれ違いさまに、アメリカ人が頭を窓から突き出して、風力発電の方を指差しながら私に話しかけてきた。

「ミツビシ、ダイヤモンド。ヤァアッ!」

発電機が日本製であることを教えたかったのだ。
夏空を背景に、緑の草むらに林立する巨大な風車は、壮観ではあるがどこか世間離れした風景である。よく言えばのんびりしたユーモラスな景色でありうるが、悪く言えば自然の景観を壊す無粋な人工物でもある。

3泊のハワイ滞在中に夕日の写真を心おきなく撮ることができた。ヤシの木のシルエットを前景に入れたければ材料はそこいらにある。晴天の夕方、太平洋の水平線に沈む夕日は明るい橙色に輝き時間とともに膨張する。沈みきった後も空は青ざめて明るい。


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アラスカ(1997年7月)    

アラスカに出張する機会があり、これが私のアメリカ紀行としては最後の訪問となった。
アラスカは厳密に言えば、今回がはじめてではない。セントルイスを往復したころ、飛行機は必ずアンカレッジで給油のため一時間ほど休憩した。乗客は飛行場の外へは出られず、ロビーの土産売り場をみたり、うまくもないウドンをたべて時間をつぶすのが常だった。

今回は仕事であるから国立公園を観光するわけではなく、マッキンレイーもオーロラもエスキモーも見ることはできなかったが、恐らく行く機会はないであろうと思っていたアメリカの飛び地に足跡を残せたことは幸いであった。

見たものは鮭の川登りである。
太平洋を回遊してきた鮭は7月に入ると産卵のために生まれた故郷に帰ってくる。川の上流の生まれ故郷まで溯ったころには鮭の体はボロボロまでに疲れ果て、産卵を最後の仕事にして、その一生を終わる。
漁師は川が海に出るところで、集まってくる鮭を待ち構えるのである。捕らえた鮭の、姿のよいのはそのまま冷凍にして日本に送り、傷ついた鮭は缶詰にしてカナダやアメリカ本土に売る。そのような仕事をしている日系企業の操業現場を見学させてもらった。

一年のうちで7月上旬の僅か二週間だけ操業する。アラスカ湾に面したこの作業村は1ヵ月たつと人影は消え、翌年の夏までひっそりと長い冬眠に入る。冬の間に翌夏の漁師を確保する。なかには趣味を兼ねた気楽な人たちもいるという話だった。自分で釣り道具やボートを持っていて、夏休みを兼ねて雇われてくる。

水揚げされた鮭は強力なバキュームで海水もろとも船底から吸い上げられ、ベルトに乗って工場に運び込まれる。工場の中では、洗浄、選別、解体、整体、筋子の摘出・塩処理、冷凍、梱包と、段取りよく作業が流れていく。アメリカ人の中にあって、筋子の塩処理の工程だけは日本から来た技術者が担当していた。特別の技術と経験が要るのだという。

薫製室もある。ドアを開けるや、炭と魚脂の香ばしいにおいの混じった煙が顔にかぶさってくる。でき上がったばかりの一切れを口にほおばると琥珀色の油がしたたりおちた。

翌日、操業所に別れて、コルドバという町に移動した。アラスカといってもカナダに近い太平洋岸にある。サケのみならず、ニシン、カニなどアラスカ湾で獲れる北洋魚介類が集ってくる一大漁港である。ここでは缶詰工場を見学した。ここから世界各地に送られる。

コルドバの町から車で一時間ばかり山に向って入ったところに大きな川が立ちはだかって、向こう岸には広大な氷河が広がっていた。遠慮がちな青さを含んだ氷の絶壁が川に入り込んでいる。数人の観光客がピクニックを楽しんでいた。真夏の季節だというのに、氷の冷たさが直に伝わってきて空気は冷たく、用意しておいたコートを着てもまだ寒かった。ときおり忘れた頃に、ドーンという大砲のような響きが対岸からとどく。大きな氷塊が川に崩れ落ちる音だ。
アルゼンチンの南端にも氷河が海に落ちる場所がある。テレビで見て、感動したものだ。ここはそのミニチュア版だった。

朝早く散歩にでかけ、町のはずれを流れる川の橋にでた。河口に向う川原は湿原で、そこを縫うように細い水流が蛇行している。その湿原のなかに、いくつかの家が建ってあって、そこには人が生活している証がみられた。旅館でも別荘でもなさそうだった。いくぶん高床式の造りにはなっていたようだが、川が増水しても大丈夫なのかと気をもませる光景である。朝日の低い光線をうけて赤色に塗装された板壁が鮮やかに輝いている。肉眼とカメラのレンズとを交互にして、ひとしきり今までに見なかった景色に見入っていた。
これをアラスカらしい風景というのかしらん。

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アラスカ 
アメリカの飛び地