その3(南部)

アパラチア山脈の旅
 シェナンドア国立公園
 ブルーリジパークウェイ
 東部インディアン小史
 グレイト・スモーキー・
  マウンティン国立公園

ディズニーワールド
アメリカ東部の旅 その3

その1(北部)へ
その2(中部)へ
アパラチア山脈の旅 (1984年夏) 

アパラチア山脈の東にはたった五つの国立公園しかない。そのうち一番古いアケーディアを最初にいった。フロリダの先の湿地帯に二つあるが、そこまで行くには随分遠い。他の二つが南アパラチア山中に二つ並んでいる。そこを一度にみてみようというのがその年の計画であった。

ヴァージニアの山地がシェナンドア国立公園で、ノース・カロライナとテネシーの山地にまたがってグレイト・スモーキー・マウンテインズ国立公園がある。二つの公園をブルーリッジ・パークウェイとよばれる長大なスカイラインがアパラチアの尾根づたいにつないでいる。

アパラチア山脈はロッキーに比べてかなり古く、なだらかな丘陵をなしていて険しさはない。だからこそ州を越えた数百キロものスカイラインの建設が可能だったのだといえる。とはいえ、当時この山脈を徒歩で越えることは危険な冒険であったことにかわりはなく、独立してもながくはこの稜線が新生アメリカのフロンティアであった。

山の向こうには広大な沃野が広がっている。白人がその土地を得るには東部山地に居住しているインディアンを沃地の西端の川向こうまで追いやる必要があった。1830年、ジャクソン大統領は「インディアン撤去法」という暴力的な法律を成立させ、ミシシッピー川以東の南部地域に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキーのいわゆる開化五部族約六万人を、ミシシッピー川以西の僻地へ強制移住させることにしたのである。インディアンたちはテネシー州とノースカロライナの州境の山地から、ケンタッキー州を通り、あるものはミズリー州を経て、あるものはアーカンソー州を横断して、インディアンのために用意された不毛の地オクラホマまで1300kmの「涙の道」を、飢餓と病気と困憊のなかで歩きつづけたのであった。その終わりの姿をルート66のオクラホマシティにある「カウボーイの殿堂」で見た。

こうして白人たちはフロンティアをアパラチアからミシシッピー川に移し、その東を白人の世界とすることに成功したのである。その後セントルイスを起点として西部大開拓が始まり、1849年金鉱の発見とともにフロンティアはロッキーを越えて太平洋に達する。そこでアメリカのフロンティアは消滅した。ジェイムズタウンに英国人がはじめて入植して約250年後のことである。

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シェナンドア国立公園

北はオンタリオ湖の東岸から南はテネシーのノックスヴィルまで、アパラチア山脈に沿ってインターステート・ルート81が縦走している。その南半分の東側を寄り添うように、南北に走っているのがシェナンドアのスカイライン・ドライブウェイと、それに続くブルーリッジ・パークウェイである。一連のスカイラインは、北はシェナンドア国立公園にはじまり南はグレイト・スモーキィ・マウンテンズ国立公園に終わる。

シェナンドアいう言葉は、古くからアメリカの歌や絵に詠われた伝説的な川の名前からきていて、ヴァージニアの美しい谷、丘、川、草原の懐かしい風景の代名詞になっている。ブルー・リッジ山脈の峯にそって三百平方マイルに、古典的なアメリカのパノラマが広がっている。シェナンドアは山の険しさを感じさせない優しい山である。尾根伝いのスカイラインドライブウェイに沿って、アパラチアン・トレイルの名で知られる自然歩道が公園内を百マイルにわたって整備され、人は容易になだらかな山に抱かれた谷川や牧場や草原を歩いて楽しむことができる。雲海の向こうに見える山並みもまた、緑に覆われたなだらかな丘陵である。

この谷にはインディアンが狩猟採集生活をおくっていた。白人がはじめてブルー・リッジの山を越えたのは1716年で、その後低地を中心に入植が始まり、十九世紀にはこれらシェナンドアの谷に住む人たちは独自の生活様式や文化を形作っていった。

やがて、東部の商業資本が進出するにつれ、森林資源が破壊され、バイソンなどの野生動物も死に絶え、山村生活者の多くが他の土地に移っていってしまった。二十世紀になってこれら自然や文化の復元や再生の気運が高まり、1926年に政府より国立公園の指定を受けた。公園内を南北に縦走する105マイルのスカイラインドライブウェイは1939年に完成したものである。

私たちのこの夏の旅は合計900kmを越えるドライブウェイの旅であった。北の入口は、首都ワシントンからインターステート66をおよそ100km西にいった、フロント・ロイヤルにある。道路の両側の林が切れるたびに見晴らしのための駐車場が設けてあって、マイル表示がある。数えてみると展望地点は80近くもあった。どこで車を止めるのがいいかは、それまで見た風景の脈絡のなかで、なんとなく判断できるようになっていた。勿論、案内書に書いてある主要な見所ではすべてフルストップする。

スカイラインの最高点はたかだか標高1100mで、尾根伝いのスカイラインという感じはなく高原を走っている安心感があった。高原に広がるビッグ・メドウズ、南北戦争当時の情報連絡地点であったシグナル・ノブ、スカイラインの最高点スカイランド、六つの滝があるホワイトオーク・キャニオンなどを経て、ロックフィシュ・ギャップでスカイラインが終る。

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ブルー・リッジ・パークウェイ

「青い尾根」とよばれるブルー・リッジ山脈には、南部にチェロキー、東部にカトーバ、北部にはイロコイ、ショーニーそしてデラウェアインディアンが住んでいた。彼らの運命や、十八世紀後半からはじまった白人の入植の経緯は、シェナンドアの場合と同様である。小集団、ときには一家族でこの山に移ってきた人々は自給自足の生活をするほかなく、外部世界との接触も希であった。彼らの生活はその後二百年の間殆ど変わることがなかったといわれる。

ブルー・リッジ山脈の尾根づたいのパークウェイは、1935年にヴァージニアとノースキャロライナの州境近くから建設がはじまり、1987年グランドファーザー・マウンテン部分で完成した。長さ750kmの長大なスカイライン・パークウェイである。自然と文化の歴史が保護されたこの山系パークウェイには250余りもの展望駐車場が設けられていて、場所により、季節により、又は一日の時刻により異なる景観を楽しむことができる。

パークウェイに沿って主要な個所にマイル表示が立ってある。ゼロマイルはシェナンドア国立公園の南端のロックフィッシュ・ギャップにある。「ギャップ」とは峯・峠を意味することもあるがこの地方でいわれるギャップとは山の窪地を意味し、山越えがもっとも容易な場所として用いられた。60マイル南下したところでジェイムズ川の上流を渡る。ジェイムズ川は州都リッチモンドを通り下流でジェイムズタウンを左手にみて軍港ノーフォークで大西洋に出る。

なだらかな見晴らしのよい高原道路をのんびり走っていくと、パークウェイは急な登りに転じピークス・オヴ・オターに出る。シャープ・トップとフラット・トップとよばれる二つの山の谷間にあって、昔はここに二十家族が住む小さな山村があった。今はリゾート・ホテルが建つ観光地となっている。

再び道は下ってロアノーク川を渡り、パークウェイ沿道では最大の町ロアノークの東側を通る。この町は1880年に鉄道が通るまでは小さな山村であった。1980年代初め、アメリカが農業不況で鶏卵が不足した時代、富山県の鶏卵会社がここに進出して大成功を収め、以来ここは、アメリカ東部屈指の鶏卵産出地となっている。こんな所で日本との関わりを知るとは思わなかった。


ノースカロライナ州にはいったすぐ先、パークウェイのほぼ中間地点がドートン・パークである。そこにはブリネガー・キャビンという古い機織り小屋があって、当時のキルトの他籠や木工細工の土産品を売っていた。周囲は広い牧場でレイル・フェンスという、縦割りにした木をくの字に組んだ柵で囲んである。柵の内側にはトウモロコシ畑が広がり、乳牛が牧草を食んでいる。青い山並みを背景に、谷間には昔ながらの農場や家屋敷のたたずまいがながめられ、山間の生活の匂いが伝わってくる。ドートン・パークから40マル南に下ったところに、ダニエル・ブーンがアパラチアの山を越える道を切り開いた跡があった。

ブロウイングロックはノースカロライナの富裕な人々が避暑地として好んだ町で、十九世紀も終わりに近い、ちょうどニューポートに富豪の豪華なマンションが建てられつつあった頃、この町にも大きなホテルや夏の別荘が建てられた。その中の一つがパークウェイ沿いにあるモーゼス・コーンのマンションである。1895年繊維で財を築いた「デニムの王」モーゼス・コーンはここに3600エーカー(1470町)の土地を購入して二十室もある大邸宅を建てた。自給自足の生活をめざし、カーバイド・ガス工場も建設して屋敷の照明の用を満たしたという。玄関のポーチはホワイトハウスに似ていて、屋根以外は白でまとめられたコロニアルスタイルの豪華な邸宅である。二つの湖をドライブできる25マイルの私道も敷設した。1947年夫人の死後記念公園としてパークウェイの一部となった。

起点から300マイルと308マイルにあたる間は、パークウェイが未完成で回り道をしなければならなかった。ちょうどこの付近はパークウェイでの最高峰グランドファーザー・マウンテン(1751m)が近くに見渡せて、回り道はむしろ気がきいていたというべきであろうか。この山の岩の年齢は十億年といわれており世界で一番古い山といわれている。「おじいちゃんの山」という名はその古さからきた。最高峰といっても2000mにも届かない山であるから、老化したアパラチア山脈やブルージッジ・パークウェイが、いかに優しいスカイラインであるかが判るであろう。

次のストップはノースカロライナ鉱物博物館であった。「リトル・スイツランド(小さなスイス)」という町の西方4kmのところにエメラルド村と名づけられた鉱夫のコミュニティがある。廃坑を博物館として管理しているだけの所だ。当時は45種類もの鉱石が発掘されたという。坑道は濁ったエメラルド色の水に浸かっていた。宝石の原石が陳列されている展示館は、スミソニアンでみた、磨かれ加工された宝石コーナーとは違った素朴さがあって、身近な感じがした。一つくらいポケットにいれても、道で拾ったといえば通じそうな親近感がある。

クラブツリー・メドウを越えた辺りからパークウェイはようやく山中らしい風景に入り、短いトンネルが出てくるようになった。ブラックベアや鹿が車を横切ったりする。ブラックマウンテン・ギャップで128号線が出ていて、標識にはマウント・ミッチェル州立公園に至るとある。マウント・ミッチェルは標高2005mで、これがミシシッピ川以東の最高峰である。パークウェイがすでに1500mの標高であるから、僅か500m登るだけでアメリカ東部の最高峰を極められる。

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ビルトモア・ハウス

マウント・ミッチェルから約60km南にアッシュヴィルという町がある。(コモドール)・コルネリウス・ヴァンダビルトの孫であるジョージ・ワシントン・ヴァンダビルトは、ニューポートで豪華なマンションを建てつつあった二人の兄の向こうを張って、ここにそれよりもはるかにスケールの大きな事業をやってのけた。マンションの建築はほんの一部である。

アッシュヴィルの南35kmにあるピスガ山を含む125000エーカー(約500平方km)の土地を買い占めたのだ。モーゼス・コーンの敷地の35倍、琵琶湖の4分の3にあたる広大な土地である。ジョージは森林部、農場部、造園部からなる企業体を創って、それぞれの専門家にあたらせた。造園を受け持ったのは当代随一のフレデリック・ロウ・オルムステッドであった。彼はニューヨーク、ボストン、シカゴ、モントリールなどの公園を設計し、またコーネル、スタンフォード、アムハーストなど数え切れないほど多くの大学構内を設計した造園家であった。

マンションの建築は建築学の学生であった自分と、リチャード・ハントの共同ですることにした。モデルはフランス、ロワール谷に点在するシャトウの中でも最も大きくて、フワンソワ一世が愛したシャンボール城である。庭やマンションの建設にあたる職人のために、ジョージは彼らの住む村をつくらねばならなかった。そこには教会、病院、郵便局まであった。仮住まいの建設飯場ではない。村の入り口に今もレンガ造りのロッジ・ゲイトがあるが、そこからマンションまでは5kmのアプローチである。アメリカという広い国の山中だからこそできたことであろうが、とにかくもそのスケールの大きさには驚嘆するほかない。

同じ時期の、同じ設計家による、城のような邸宅であるのに、内部はニューポートの兄が建てたものとは非常に対照的で、金銀・大理石で固めたような部屋でなく、木を基調とした落ち着いた雰囲気の部屋が多かった。マンションの名はビルトモア・ハウスと呼ばれている。「ビルト」は自分の名からとった。ヴァンダビルトとは「ビルトのヴァン」という意味で、ビルトはオランダの町の名である。「モア」は古代英語で「起伏のある高地」という意味で、ブルーリッジの風景に似ていたのであろう。

ピスガ山を通り過ぎ、道はさらに登ってブルーリッジ・パークウェイの最高地点(標高1816m)を越えると、まもなくグレイト・スモーキー・マウンティンズに入る。750kmのスカイライン・ドライヴであったが、山中の一本道でなく、変化にとんでいてドライバーを飽きさせなかった。


チェロキー・インディアン

ブルーリッジ・パークウェイの最後の部分はチェロキー・インディアン居住区内を通り、終点でルート441号線と交差する。南に3kmいくとチェロキー村がある。私たちはこの村で宿をとることにしていた。夜には「これらの丘へ」という野外劇を見た。誇り高き民族の白人との闘いのドラマである。

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東部インディアン小史

アメリカにおけるインディアンは言語群として六つに、地理的文化圏としては七つに分類されるのが一般的である。ミシシッピー川以東には東部森林文化圏として、海岸地域にアルゴンキン語系のオタワ、アブナキ、ニプマック、ワムパナグ、ナラガンセット、デラウェア、ポーハタン等の部族と、内陸部にはこれらと対立していたイロコイ語系のモホーク、カユーガ、オネイダ、オナンダガ、セネカの五部族連合やヒューロン族がいた。イロコイとはガラガラ蛇で、モホークは人喰人を意味するという。

東南部文化圏としては、マスゴーギャン語系のアパラチア、チカソー、チョクトー、クリーク、セミノール、ナチェスなどがいた。チェロキーは東南部文化圏にすむイロコイ語系部族である。
アメリカに植民地を開いたのはイギリスだけでない。オランダやスェーデンからも毛皮交易を求めてやってきたし、南では西インド諸島やメキシコから北上してきたスペインが、金を求めてフロリダに上陸していた。北はセントローレンス川流域とミシシッピー川流域にわたって、フランスが領有権を確立していた。彼らの主目的も毛皮交易であって、インディアンとの関係は友好的であったといわれている。

1755年、カナダ、ケベックとミシシッピー川の間に横たわるオハイオヴァレーをめぐって、フランスと、イギリス・植民地連合軍の8年にわたる戦いが始まった。フレンチ・インディアン戦争といわれるものである。アルゴンキン系北部インディアンはフランス側につき、イロコイ五部族連合はイギリス側についた。

戦いはフランスとアルゴンキン系インディアンの敗北におわり、1763年のパリ講和条約で、イギリスはカナダからフロリダにいたる、ミシシッピー以東全域の広大な領地を獲得した。この戦争のもう一人の主役であったイロコイ・インディアンは無視され、何も報われることなく、かえって彼らの土地は英仏両国の取引の具とされただけであった。

仏英に振り回されたインディアンたちが混乱からまだ立ち直るひまもなく、1775年にはイギリスに対するアメリカの独立戦争が始まった。イロコイ連邦の一部は中立の立場をとったが、部族連邦の主導者であったジョセフ・ブラント下のモホークと、カユーガ、オナンダガ、セネカはイギリス本国側の支持にまわって手痛い敗北を喫したのである。この戦争でイロコイ連邦は瓦解した。

さて舞台は南部に移る。欧州ではナポレオン戦争の末期の1812年、アメリカはイギリスに対して宣戦した。アメリカ世論は、戦争に反対する北部東海岸の商業関係地域と、主戦論を唱える南部農村地帯に二分した。この戦争をめぐるインディアンの動きは複雑であった。北部ショーニー出身のテクムセは、イギリス軍に協力しデトロイトでアメリカ軍を破った。その後南部の強大部族であったクリーク族の説得にあたるため南に下った。

クリーク内部では、ウィリアム・ウェザフォードという若者を指導者とする親英反米派と、ウィリアム・マッキントッシュに代表される親米反英派との間で一種の権力抗争があった。共にスコットランド人を父親とする混血クリーク・インディアンである。ウェザフォードをはじめとする反米派はテクムセの呼びかけに応じて蜂起した。いわゆるクリーク戦争のはじまりである。

クリークの対米宣戦は、同じ南部にいたチェロキーの人々に苦しい選択を迫ることになった。インディアンの仲間につくか、国家に従うか。
――今、国に協力しておけば政府が今後我々に難題をつきつけることはしないだろう――
チェロキーはアメリカ政府に協力することに決めた。

クリーク討伐の役を買って出たのは
アンドリュー・ジャクソンというテネシー出身の名もない不動産屋あがりの地方政治家であった。彼は苦戦を続けたが1814年、政府派遣の正規軍とチェロキー義勇軍の協力を得て、アラバマ州ホースシューベントの決戦でウェザフォード達を撃滅した。余勢をかってジャクソンはニューオーリンズでイギリス軍を破り、国民的英雄となる。

ジャクソンは1829年、初めての西部出身大統領に就任するや、最大の協力者であったチェロキーを追放する法律制定に着手した。

ナポレオンの没落で対英戦争も1814年に終わる。第二独立戦争とも呼ばれるこの戦争で、アメリカ歴史の視野から英国が完全にきえた。入植以来、常に欧州に目を向けていた東部の人々の関心が、西部に向けられるようになった。西部とはアパラチアの西の地である。山を越える道を開くことと、アパラチアからミシシッピーにかけて住んでいるインディアンをさらに川の西方に追いやることが必要となってきた。

チェロキーの運命

北部のインディアンがフランス、イギリス、アメリカを問わず白人との対抗の歴史であったのに対し、南部のインディアン、特にチョクトウ・クリーク・チカソー・セミノール・チェロキーのいわゆる開化五部族は、自力による抵抗をあきらめ非戦闘的共存の道を歩みはじめていた。これにはモラビア人教団の貢献が大きかったといわれている。特にチェロキーにおいて白人文化への適応が顕著であった。

チェロキーは教団の宣教を受け入れ、読み書きを習い、農業牧畜の定住生活にいそしんだ。アメリカ人の父と、チェロキー酋長の血をひく母との間にうまれた
セコイアは、英語の知識を活用してそれまで文字を持たなかったインディアンに初めて彼らの文字を発明したのである。数年の間に文盲であったチェロキーの人たちを文盲率ゼロのレベルまで導いたのであった。カリフォルニアのセコイアという巨木の名は彼に捧げられたものである。

チェロキー・インディアンの中に入ってそのまま長く居着いてしまう白人も多かった。テキサス州生みの親といわれるサム・ヒューストンは、若い頃に3年チェロキー村に住みついた経験が忘れられず、後にテキサス知事になってからも、結婚まもない妻と別れ知事の職もすててチェロキーに舞い戻り、そこの女性を妻とした。かれはクリーク戦争にもチェロキー軍として参加している。

ジャクソンは元々土地投機屋として出発した男である。1800年以前から、チェロキーたちの土地を安く買い上げては東部都会の不動産屋に売ってぼろ儲けをしていた。連邦政府も様々な手だてを考えては法的なインディアンの土地収奪をはかり、また過疎地への移住を促していたのである。

チェロキーが西に移住を開始したのは1809年であった。酋長タロンスキーとその一族数百人はもともと白人との共存を好まない保守的な人々で、いわば自発的にアーカンソーの地に向けて旅立っていった。その後も政府が言う西方の豊かな地を信じて移住していく人が続いたが、やがて彼らのたどり着いた土地と生活の悲惨なようすが伝わってきた。残った人たちはいよいよ残留の意志を固くし、ここに西と東の二つのチェロキー・ネイションができることとなった。

東チェロキー・ネイションのその後の発展は目覚しく、ジョン・ロスという指導者を得て白人社会に劣らぬ文化をもった独立国家を形成していった。そこにはセコイアがつくりあげたチェロキー文字が絶対的な貢献をしていたことはいうまでもない。チェロキー国家には学校、図書館、新聞発行・印刷所ができていた。アンドリュー・ジャクソンが第七代大統領に選ばれた年、ジョン・ロスはチェロキー・ネイションの初代大統領に選ばれた。

白人がチェロキー国家をつぶすには「インディアン撤去法」を作るしかなかったのである。1830年の発効と同時にまずチョクトウが、1832年にはクリーク、セミノール、チカソーが移住に同意させられた。ジョン・ロスの指導のもとにチェロキーはジョージア州の人間の様々な挑発にものらず移住を拒んだ。連邦政府は1838年12月を期限と定め、実力行使に出た。14000人をこえるチェロキーはついにそれまで築き上げたすべてを失い、13の集団にわかれて順番に、白人の請負業者にエスコートされながら「涙の道」を西へと連れて行かれたのであった。道中4千人以上の人達が餓えや病気で死んでいった。ジョン・ロスは13番目の最後の集団と一緒に出発し、途中肺炎で死んだ妻を路傍に埋めて送葬の旅を続けた。

移住を拒否して山谷に逃げ隠れた一部のインディアンは、1870年になってノースキャロライナの西に土地を与えられることになった。それが今のチェロキーインディアン特別保護区域である。かれらは自らをチェロキーの「東部隊」とよんでいる。

アメリカ人の大いなる偽善をジョン・ロスは見抜けなかったのである。

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グレイト・スモーキィ・マウンテンズ国立公園


グレイト・スモーキィ・マウンテンズ国立公園はノースキャロライナとテネシー州に半分ずつまたがっている。幾重にも広がる山並みは淡い緑に包まれて谷間には霧雲がゆっくり流れている。

殆どの国立公園は国有地を開発したものだが、この国立公園は、個人や林業企業の所有地であったものを、ロックフェラー家による五百万ドルの寄付を筆頭に、時間をかけて市民や政府の資金を元手に買収を重ねていったものである。この地域にはチェロキー・インディアンのほかスコットランドやアイルランドからの入植者の末裔がいまも七百人ほど住んでいるという。

ニューファウンド・ギャップ・ロードは、USルート441のノースキャロライナのチェロキー村と、テネシー州のギャトリンバーグを結ぶ、公園内を走る33マイル(53km)の部分の別名である。約一時間で美しい景色にかこまれたこのパークウェイを走り抜けることができる。

ニューファウンド・ギャップ・ロードのほぼ中間点、州境がニューファウンド・ギャップ(標高1500m)である。この近くにあるマウンテンファーム博物館は1880年代の南アパラチア地方の農場をモデルに、公園区域内に散在していた農家や農場の建物を集めてつくられた。家畜や農作物と一体になって昔の農村風景をそのままに伝えている。

クリングマンズ・ドームは二州にまたがる標高2000mで、国立公園内及びテネシー州での最高峰である。ミシシッピー川以東の地域ではマウント・ミッチェルにつぐ二番目に高い山で、展望台からは晴れた日はモミの木の向こうに100マイルにわたって七つの州が見渡せるという。クリングマンズ・ドームはスープ皿をかぶせたほどにゆるやかな山で、頂上まで車道がついている。

この国立公園は公園といっても谷間に雲をたなびかせる波打つ山が連なるだけで、トレイルといわれる歩道を歩いて山の自然と親しむ他に能動的な活動の場所がない。健脚のハイカーや登山家には魅力ある山だが、観光めあてのドライバーにはすこし手持ちぶさたな公園ではあった。



カンバランド・ギャップ

ニューファウンド・ギャップ・ロードを通って公園を横断し、その日の夜はテネシーのノックスヴィルに泊まる。翌日はカンバランド・ギャップという、西部と東部を結ぶ歴史上極めて重要な峠を越えて一路帰りの途につく予定である。その峠のすぐ近くでテネシー、ケンタッキー、ヴァージニアの三州が接している。


アパラチア山系は幾重にも南北の山脈が走る幅広い山地であって、バッファローやインディアンたちは長年にわたる試行錯誤のすえに、いくつかの獣道を開いていた。1750年、ヴァージニア政府からブルーリッジの以西80万エーカーの土地を与えられた白人の一団が、土地の囲い込みにやってきた時に、ケンタッキーに通じるカンバランド・ギャップを発見したのである。しかし、実際最初にこの峠を越えてケンタッキーに入ったのは、1775年、30人の男をひきつれたダニエル・ブーンであった。移民の波はすぐに起きて独立戦争が終わる頃には一万人以上の人がカンバランド・ギャップを越えた。1792年にはケンタッキー州の人口は十万人をこえ、合衆国に加えられたのであった。

ダニエル・ブーンは1734年、ペンシルヴァニアで生まれ幼いときから銃を見習い、ハンターとしてアパラチアの山を放浪していた。フレンチ・インディアン戦争に参加したとき、アパラチアの西にケンタッキーという緑豊かな沃野が広がっていることを聞いた。1775年にその夢を実現したのである。ダニエルはケンタッキーにながく定住して公職にも就いたほどだが、土地問題に巻き込まれて結局自分の土地すべてを取り上げられ、1788年今のウェスト・ヴァージニアに移住、さらに十年後ミズリーに移って1820年貧困の内に86歳の波乱の生涯を閉じた。

着いた所は霧の深い峠であった。霧ではなくて雲である。視界は50mくらいしかない。グレイト・スモーキーとは「深い煙が立ち込める」という意味であるがここがその中心かと思うほどであった。インディアン・ロックと名づけられた大きな岩に鉄板が打ち付けられダニエル・ブーンの名が彫られている。テネシーからケンタッキーへはいる州境にはトーマス・ウォルカーやダニエル・ブーンのことを記した立て札があった。ケンタッキー州に入ったところの歓迎札に、駆ける馬の絵が描かれているのがおもしろい。シェナンドアといいアパラチアといい、そしてケンタッキーといい、これらの語には、遠い昔どこかで見た物憂い春の風景と、どこからともなく聞こえてくるのどかな故郷の音楽を偲ばせるひびきがある。



ナチュラル・ブリッジ

私たちはブルーリッジ・パークウェイの西側を並走するインターステート81を一路北上して帰る予定であったが途中、休憩を兼ねて地図で見つけた「ナチュラル・ブリッジ」まで寄り道をすることにした。ロアヌークを過ぎブエナ・ヴィスタの手前にナチュラル・ブリッジという名の町がある。小川に沿って細い谷間の小道をゆくと突如として両側の岩が65mの高さにのびて、そこで30mに渡ってつながっている。こちらから短いトンネルの向こうの全景が見渡せられる。

この自然の石橋が、あるいは巨岩のくり抜きがどうしてできたのか、そこでもらったパンフレットには世界の自然七不思議の一つだというだけで、理由はなかった。世に言う世界自然七不思議のリストには残念ながらこのナチュラル・ブリッジはない。東部アメリカの自然七不思議で抑えておくほうが現実感がある。ちなみにアメリカにはこの他にもアリゾナ、ユタ州を中心とするいわゆるキャニオンランドにナチュラル・ブリッジがいくつもある。むしろ西部のそれらのほうが有名かと思われる。ここのナチュラル・ブリッジが町の名前にまでなったのは東部における自然名所の希少価値からであろう。

いずれにしてもこの自然橋は昔から人気があって、1774年にトーマス・ジェファーソンがこの橋と周囲157エーカーーの土地をイギリス国王ジョージ三世から1ポンドで買ったという嘘のような話しが伝わっている。ナチュラル・ブリッジの町には、リゾートホテルや別荘、それになぜか知らぬがワックス・ミュジアムまであって、東部では名の知れたリゾート地だったのである。私たちが訪れた日は偶然にもクラシッ
ク・カーのイヴェントがあったようで、谷間の小道に20台ほどのピカピカに手入れされた大正時代の車が整列していた。

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ディズニーワールド(1985年5月)

剛哲の2歳の誕生日を記念して南に出かけた。エアーティケット往復大人1人248ドル、ホテル三泊・レンタカー・2日有効入場券、含めて286ドル、しめて四人家族(剛哲はすべて無料)ディズニーワールド往復906ドル(当時の為替換算で21万円)の家族旅行であった。アメリカの春は短い。ニューヨークでも6月にはいればプール開きがある。フロリダは真夏の陽気であった。

ウォルト・ディズニー (1901-1966)ほど子供の夢を追いかけた夢想家は、手塚治虫(1928-1989)をおいて他にはいないのではないか。ディズニーはお伽の国、手塚は未来の国と、憧れた世界は異なるようだが共にアニメを芸術の領域にまで高めた意味では二十世紀を代表する天才であった。ディズニーは芸術家としてだけでなく、事業の成功者でもあった意味においては、手塚よりも幸せな人間であったといえる。

私がロスアンジェルスにいた1997年に、封ぎられたばかりの『ライオン・キング』を見に行った。その後すぐに、それは手塚治虫の『ジャングル大帝』の盗作ではないかという議論がでて、しばらく日米の間で論争が続いた。『ジャングル大帝』は1965年(昭和40年)、ウォルト・ディズニーがこの世を去る一年前に日本初のカラーテレビアニメとして放映されたものである。『ライオン・キング』はディズニー・プロが制作したもので、ウォルト・ディズニーの創作ではない。いずれにしても二人の天才がいなくなってからのでき事であって、二人は互いに苦笑しながら、「子供が喜ぶならどちらだっていいじゃないか」といっているような気がする。

1955年7月、ウォルト・ディズニーは長年の夢を、カリフォルニア、ロスアンジェルスにディズニーランド・パークとして実現した。それまでにアニメの世界で創造したミッキーマウス、ドナルドダック、プルート、グーフィー、白雪姫、シンデレラ、アリス、バンビ、ダンボ、ピノキオなど、30以上の人気キャラクターを一堂に集め子供を夢の世界にいざなう。

1971年にオープンしたフロリダ、オーランドのウォルト・ディズニー・ワールドは、ロスアンジェルスの兄弟パークであるが、面積においてはディズニーランドを凌ぐ。当時はマジックキングダム・パークの隣にエプコットセンターが開園されたばかりであった。今はさらに映画の都「ハリウッド」を再現したディズニーMGMスタジオとテーマ動物園としてのディズニー・アニマルキングダムが完成したそうである。ロスアンジェルスの本拠地にも新たな計画が進められているようで、巨大化はとどまるところを知らない。

ディズニーランドは海外にも進出し1983年、東京ディズニーランドの開園を初めとしてパリにユーローディズニー、二十一世紀には香港にアジアで二番目のディズニーランドができる計画である。

マジック・キングダム

星条旗がたなびくゲイトを越えるとそこはマジック・キングダム(不思議の王国)である。立ち並ぶ建物は色・形がとりどりで、塔をもつ建物には必ずその上に星条旗がたなびいている。メイン・ストリートの中央を、サンフランシスコのケーブルカーをさらに飾り立てたようなトロールカーが馬に引かれていく。メイン・ストリートの正面が子供たちの目的地、お伽の国である。シンデレラ城は狂王ルートヴィッヒ二世のノイシュバンシュタイン城のように見えた。その現実離れした姿が、お伽の国のシンボルとしてマッチしている。

子供のころテレビでみたディズニー番組の最初にでてくるのが、いつもこの城と「星に願いを」の音楽であった。この国こそがディズニーの故郷なのだ。私が昔テレビで出会った面々がそこにいた。私は明子よりも興奮気味だったかもしれない。まだ二歳の剛哲を喜ばせようと、出迎えたミッキー、グーフィー、ドナルドダックたちに握手をさせようとやっきになったが、剛哲はオオカミのグーフィーに肩をだかれて泣き出してしまった。明子だけが「私、この人たちよく知っているよ」といった顔をして一人楽しんでいた。 剛哲は空飛ぶダンボに乗って、ようやく自分の領分を見つけたようだった。

冒険の国ではジャングルクルーズに乗って水浴びする象や大きく口をあけて船を待ちうけるワニやカバに会う。機械仕掛けとはいえ曲り角で急にでくわす動物や原住民の姿には大人でも一瞬ドキッとする。『レイダーズ・失われたアーク』にでてくるような密林の石像や、カリブの海賊などもこの国にいる。

開拓の国の中心は砂漠の岩山、ビッグサンダーマウンテンが主人公である。その周囲をトロッコ電車が荒々しく走る。金抗、洞穴、火山の間欠泉、滝などをめぐるジェット・コースターである。トム・ソーヤの島にはうっそうと茂る木々に隠れるように、ひなびた水車小屋やログ・ハウスがひそみ、島の回りをスティーム・ボートが巡航する。私はその蒸気船に乗ってセントルイスで実現できなかった夢をここで果した。三階建てのデッキはすべて人で埋まっていた。私は水掻き車輪が気に入って、至近距離から写真の構図をとるのに忙しかった。

最後に未来の国へ行く。この国だけが異質であった。ほかの三つの国にはなんらかの郷愁があったが、この国にはそれがない。むしろ手塚治虫の世界に近い。

夜十時からメイン・ストリートでエレクトリカル・パレードが始まる。暗闇の中に電球に彩られたフロートが次から次ぎへと繰り出す。アニメにでてくる動物たち、汽車、ロンドンのビッグ・ベン、丸い馬車に乗っているのはシンデレラ、キノコの上で手をふるのは白雪姫であろう。彼女たちのドレスやリボン、手に持つ杖にも豆電球が仕掛けられていて、動くクリスマス・イルミネーションのようだった。開園から閉園までの旺盛なサービス精神はディズニーの神髄であろう。これはハリウッド・スピリッツでもある。この光り輝くパレードは2001年になって東京ディズニーにも導入された。
  
                                  
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エプコットセンター

1982年、隣接地にエプコットセンターがオープンした。未来の世界と世界のショーケースの二区画に分かれている。未来の世界はハイテクの世界だ。私たちは未来の世界を端折った。

世界のショーケースには世界十ヶ国の村がある。各国の代表的な建物や風景を再現して、伝統的な民族衣装を着た人達が特産物を売ったり、アトラクションを演じたり、そしてエスニック料理のレストランがあって観光客を飽きさせることがない。

マヤ時代のピラミッドが出迎えるのがメキシコ。フラメンコのようにカラフルなスカートの裾をたおやかに揺り回すメキシコ女性の踊りを見た。

朱の柱に黄金の屋根を構える朝陽門と、三重の青瓦の円錐塔、祈年殿は中国である。祈年殿の前に獅子舞が出迎える。日本の獅子舞と違って頭の飾りがにぎにぎしくて怖さを感じさせない。

次はドイツ、イタリア、アメリカと続く。妻と私はヨーロッパ旅行や東部の旅で得た記憶をよみがえらせて「あれ、見た。これ、知ってる」と二人で悦に入ってたが、子供たちには退屈な思いをさせたかもしれない。

日本村は城下町である。金のしゃちほこがきらめく城の前は、紫宸殿と、五重塔を従えた日本庭園が通りを挟み、前方の池には朱色の鳥居が立っていた。厳島か、さもなければ近江の白髭神
社の鳥居である。桂離宮を模した建物は焼き鳥ハウスである。紫宸殿の一階は土産物屋で、二階はテンプラと鉄板焼きレストランになっている。これ以上効率的に日本のイメージを凝縮することはできないと思われた。


隣はモロッコである。唯一のイスラム村である。一見するとニューメキシコで見たインディアンの家のような土造りに見えるがよくみると繊細な石細工と幾何学模様の修飾があることがわかる。砦のなかのバザールにある、桃の形のアーチ門は青タイルの草模様が美しかった。

次にフランスとイギリスが続き、カナダで終わる。フランス村でみた、ごみ箱に腰掛けて微動だにしないパントマイム女性は見事であった。黒いベレー帽をかぶり、ピンクと白の横縞のシャツとハイソックスを身につけ、顔は真っ白にクラウンのメイキャップである。白い手袋をはいた両手はマネキンのようにポーズしたまま凍り付いている。プロとはいえ素晴らしかった。

近くにホテルをとっていたので遅くまで遊ぶことができた。深夜近くになって駐車場を出ようとしたとき背後に大きな音がして夜空に花火の大輪がひろがった。

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