ペンシルヴァニア州
(1982年夏)
ペンシルヴァニアとはペンの森という意味で、クエーカー教徒であったウィリアム・ペンが入植して森を切り開き開墾した土地である。いまは肥沃な田園が延々と広がっている。州の東端、デラウェア川の下流に、独立宣言が読まれた古都フィラデルフィアがあり、西は鉄鋼の町ピッツバーグがある。ピッツバーグはアメリカの産業革命をになってきた鉄鋼王カーネギーと、モルガンにならぶ大銀行家メロンの故郷であるが、戦後技術革新を怠ってアメリカの鉄鋼市場は日本に蹂躪された。フィラデルフィアもピッツバーグもセントルイスと同じように、懐古をむさぼる老人の町に落ちぶれた。
州都ハリスバーグの南西に、南北戦争の激戦地ゲティスバーグがある。1863年の11月ここでリンカーンは歴史に残る演説を行なった。二分間という短い演説を不朽の名言で結んだ。私が高校で英語に夢中になっていたとき、この名フレーズを幾度となく口ずさんだものである。
Fourscore and seven years ago our fathers brought forth on this continent a new nation…
「フォウスコアー・アンド・セヴン・イヤーズ・アゴー」という出だしの文学的な響きが心地よい。スコアが20を意味することをこのとき知った。
「エイティ・セヴン・イヤーズ・アゴー」と、数学的に言わないところが奥ゆかしい。
それを直接、
「イン・セヴンティーン・セヴンティ・シックス」と、歴史的にいってしまえば味も素っ気もない。
最後はあまりに有名で、気分を出して高らかに発すると鳥肌が立った。
…government of the people , by the people, for the people, shall not perish from the earth.
「人民の、人民による、人民のための政府は地上から滅びることはない」
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ハーシー
ハリスバーグの手前にハーシーという、公園のような町がある。そもそもペンシルヴァニアの中央にあるこの一帯は、広大な一つの庭のように手入れされた美しい風景が広がっている。イングランドの田舎地方にきた感じがする。
1857年、デリー・チャーチという村の農家にミルトン・ハーシーは生まれた。母は敬謙なメノー派教徒で一人息子のミルトンを厳格な教義のもとで育てた。広辞苑によるとメノー派とは「十六世紀にメノー・サイモンズが創始したプロテスタントの一派で、幼児洗礼・誓言・公職就任・兵役などに反対する」とある。十六世紀に起こった再洗礼運動の一派で、洗礼は大人になって自分の意志に基づいてなされるべきであること、教会と国家は分離されるべきことを主張する。その結果彼らは公職や兵役を拒否した。
ミルトンは教育を小学校四年で終えてランカスターの菓子屋に奉公に出た。ここまでは宗教を除くと私の父とおなじ経歴である。四年間の丁稚奉公を終えたミルトンはフィラデルフィア、シカゴ、ニューヨークで菓子屋経営に失敗したのち、1883年26歳のときランカスターに戻ってキャラメル会社を起こす。
1893年ドイツよりチョコレート製作機械を導入したのがきっかけとなり、以降キャラメル会社を売ってチョコレート製作に専念する。その後、それまでスイスの専売特許であったミルク・チョコレートに魅せられたミルトンは、新鮮なミルクが得られる故郷デリー・チャーチに戻り、そこに最新設備をそなえた大工場を建設して大量生産にのりだした。ハーシーのミルク・チョコレートはたちまち全米のトップブランドとなったのである。
彼は事業に成功すると自分の工場のある場所を理想的な町にしたいという夢に取りつかれていった。従業員の家、交通機関、道路、公園、学校などを次々に建設し、大恐慌のときには不況対策としてハーシー・ホテル、スポーツ・アリーナ、スタジアム、ダンスホール・パヴィリオン、ハーシー・パークヴュー・ゴルフなどを矢継ぎ早に建設していった。これらはその後、この小さな田舎町を観光の町に育て上げていくことになる。
ロックフェラーやカーネギー、メロン、デュポン、モルガンなど、当時の成功した事業家と同様、慈善事業にも熱意を注ぎ、子供がなかったミルトンは妻キャサリーンと孤児のための学校を建てた。1935年ハーシー財団を創設し、現在までハーシーの名を冠した博物館、庭園、劇場の運営に当てられている。ミルトンは1945年88歳でその充実した一生を終えた。
私たちが泊まったのは1967年に建てられたハーシー・ロッジであった。いわゆる何でも揃っているリゾートホテルで、家族連れはここで何日も過ごす。プールで明子が水遊びをしているとき、同じハーツデールから来たという小学生姉妹と仲良くなり、ひとしきり遊んでもらった。
ハーシー・ガーデンは六つのテーマごとに設計されており、特に八百種類、一万四千本もが咲き乱れるバラは素晴らしい。大理石のテラスや彫刻を備え多数のバラに囲まれたイタリア庭園のほかに、幾何学設計の英国庭園、岩の庭、コロニアル庭園、噴水の庭など、それぞれは小さいが誠意のこもった心遣いが感じられる。
日本庭園はお決まりのように、池に人口島をつくって小川から水を引いてくる。その際中間には小さな滝をこしらえて風情を添える。川と島を橋で渡し、岩と松と石灯篭をしつらえて回遊式庭園とする。わかっていても、外国でそのようなもてなしを受けるのは内心嬉しい。
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ダッチ・カントリー
いわゆるダッチ・カントリーはランカスターの町を中心としてある。ここに近代文明を避けて素朴で簡素な生活をしているアーミッシュの人々がいる。アーミッシュとは十七世紀の後半から十八世紀にかけてスイス人アマンが創始したプロテスタントの一種で、ハーシー家の属していたメノー派の流れを受け継いでいる。全米二十余りの州に十数万人が住んでいるといわれており、ここペンシルヴァニア州がオハイオについで多い。
マスコミ、映画、自動車、電気など現代文明を頑なに拒んでいる。カメラも最たる文明の利器であって、勝手にカメラを向けることはできない。彼らは教会をもたず一般の家庭で集会を持つ。葬式も個人の家で行う。
アーミッシュの人々には男女ともに厳格な服装規則がある。スタイルは一定のパターンのみでデザインを競うことは許されない。服装のパターンは十七世紀以来変わったことがない。女性は必ず頭の後方に「祈りのキャップ」と呼ばれる白いガーゼのような薄いキャップをかぶる。ユダヤの男性が丸い小さなキャップを頭にピンでとめているのを連想させる。外出するときはその上に黒いボンネットをかぶる。ドレスは黒だけでなく茶、青、緑など濃い色なら許される。男の服装は黒に統一されていてチョッキに吊りズボン姿である。ベルトはつけない。帽子は麦わら帽か黒いフェルトのハットの二種類で天候によりいずれかを選ぶ。結婚した男は髭を伸ばす。ただしあごひげであって決して口髭は生やさない。黒い服といいあごひげといいオーソドックス・ジューと通じるところがあるように思えて仕方ない。
車は勿論のこと子供の三輪車もない。子供はみかん箱に輪を付けたようなものに乗って友だちが紐で前から引っ張る。自転車も贅沢で禁じられているそうだ。公共輸送手段としてはバスと電車は認められているが飛行機はだめである。日常の大人の移動手段は馬車である。二種類あり一つはバギーとよばれる箱型の覆いで囲われたもので、通常既婚者が乗る。四人乗りで子供を後部に乗せる。乗っている人の様子は見えない。若いカップルは覆いのない人力車のような二人乗りの馬車を使う。オープン・スポーツカーである。
この地方にはカヴァード・ブリッジといって屋根と塀に囲われた橋がたくさん残っているが、その橋の途中で馬車がしばらく止まることがあるらしい。その間は、車上の二人がキスをしている時だそうで、カヴァード・ブリッジを別名、「キシング・ブリッジ」とも呼ぶ。これは宗教と関係ない。橋は風情があって好きだ。馬車の通るのを気長に待って、橋から出てくるところをカメラで素早く捉えることができた。
最近新しい交通手段を開発し、全国的な注目を集めているという新聞記事を目にした。アーミッシュ版足げりスクーターである。ハンドルも前に付けた買い物かごも、自転車の前部とそっくりであるが、ただペダルとチェーンがなく前輪と後輪の間は縦長の足置き台で連結されているところが違うだけだ。なぜスクーターがよくて自転車はいけないのか判然としない。ペダルとチェーンが文明的だとでもいうのだろうか。
そのような村を散策した。アーミッシュの人の様子は遠くから望遠で撮るしかなかった。
ストラスブルグからダッチ・カントリーの中を往復15km走るSLに乗った。150年以上も古いもので、その最後部にあるオープン・デッキはバーブラ・ストライサンドの『ハロー・ドリー』の映画にも出たものである。黒い機関車が黄色の客車を四両引っ張っている。石炭の懐かしい匂いが窓から入り込む。蒸気を吐き出す音、腹に響くような汽笛の音、板張りの客室、天井に吊らされたランプ。明子は今回の旅でハーシーロッジのプールと、この汽車が一番気に入ったようであった。
アーミッシュの人たちは文化を拒否するような態度をとる一方で、自分達の生活様式が観光の対象になっていることをはっきり自覚している。カメラを嫌がる一方で観光客が重要な収入源であることを承知している。この共存と妥協に見られる二重性が私にはしっくりこない。周辺のとうもろこし畑と乳牛とサイロの田園風景は、ニューヨーク州でも見かける風景だが、文明を拒否するかのようなコミュニティの雰囲気には異様なものがあった。それが民族の違いやあるいは自然の隔離に起因しているのでなく、同じ文明のなかにいる同じ人種が、信仰という一点で文化の価値観を律しているところに異様さがある。ついついユダヤ人と比較したい誘惑にかられてしかたない。
確かにマンハッタンのダイヤモンド街でみかける、黒装束のオーソドックス・ユダヤ人の男性も周囲に溶け合わぬ風景であった。彼らは宝石、貴金属の流通をほぼ独占するキャピタリストである。その容貌といえば、夏でも暑苦しい黒い帽子をかぶり、帽子の両脇からよくカールされた一筋の髪束を肩までぶら下げている。年寄りでもないのに長い髭を伸ばし、大学の応援団を思わせる尻までくるような丈の長い黒上着をきている。これらがすべて揃うと、見るだけで暑苦しく、重苦しい気分に襲われる。
服装や食べ物だけでなく、安息日として土曜日は一切の文明を排する点でも両者には共通性がある。同じユダヤ人の友人の話しでは、このような服装をするのは四派あるユダヤ教派でもオーソドックス派だけらしい。その友人は最も進歩的な派で、ウニや赤貝のにぎりが好きで豚のシャブシャブも好物である。シナゴーグにも行かないし顔や頭はさっぱりしたものであった。
アーミッシュの人達が、アフリカの奥地やニューギニアの山奥やそのほか世界の秘境・奥地というところに住んでいるわけでもなく、先進国アメリカの肥沃な農村地帯に住んでなお電気を受け入れないというのは何故なのか。きついようだが、オーソドックス・ユダヤ人と同じく、時代錯誤か宗教の独善としか思えない。
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ヴァージニア歴史の旅
(1983年秋)
アメリカ独立の歴史は北東部のマサチューセッツと中東部のヴァージニアに集約される。ヴァージニアの大西洋岸ジェームズタウンに1607年、アメリカ最初の入植地が建設された。102人の清教徒がプリマスに上陸する13年前のことである。1775年4月、レキシントンの戦いで幕をあけた独立戦争はボストンの攻防をめぐって展開され、1776年フィラデルフィアで独立宣言が読み上げられた。1781年10月、ヨークタウンで米英決戦が行われアメリカ軍は6年半にわたる独立戦争に勝利する。
植民地時代の町の様子がウィリアムズバーグの町の一角に再現されている。マサチューセッツのオールド・スターブリッジ村の中を車で通れるようにしたようなものである。 なおフィラデルフィア、マウント・ヴァーノンは翌年の夏、シェナンドアを旅したときに行ったのであるが歴史散歩の旅としてここにまとめた。
ワシントン
アメリカが独立した1776年以来、連合政府機能はフィラデルフィアに置かれていた。といっても正確な意味での最初の首都はニューヨークである。1789年4月、合衆国憲法下の第一回議会でワシントンが初代大統領に就任したのはニューヨーク証券取引所の向かいにあるフェデラル・ホールであった。その時1800年を期して首都をワシントンの地にすることが決った。同時に1790年から首都建設が完了するまでの10年間は首都をフィラデルフアにすることになったのである。首都予定地に決った土地はペンシルヴァニア、ヴァージニア、メリーランドの三州に挟まれた湿地帯であるが、独立13州のほぼ中間で、港から遠くもなく海から適度に離れている場所ということで決ったものである。
アメリカにはワシントンという地名や道路名は掃いて捨てるほどある。首都というためにワシントンのあとに「ディストリクト・オヴ・コロンビア」をつけた。コロンビアはコロンブスからきている。略して「ワシントン・D・C」が正式名称である。
政府の建物の内部をみるつもりもなく、前を通りすぎるたびに一時駐車をして窓から一枚証拠写真を撮るにとどめた。ホワイト・ハウス、国会議事堂、ジェファーソン・リンカーン記念館の前を通り、スミソニアン博物館だけ寄っていくことにした。
正確には国立自然史博物館である。白い大理石ばかりの建物のなかで、茶色の煉瓦色の城のような建物が目につくがそれは十九世紀中頃に建設されたスミソニアン博物館のオリジナルである。現在は13の博物館・美術館と国立動物園を含めた全体の総称をいい、生きた動物までふくめて博物館とはもはや言えない。スミソニアン協会システムとでも言ったほうが適当であろう。とにかくシステム全体で7千5百万点もの物品・標本を有する世界最大の収集家である。展示されているのはそのうちの1%で、あとは倉庫に眠って出番を待っているか、研究者の資料に供されているという。収集品はモハメド・アリのグローブからジョージ・ワシントンの入れ歯のセットまで収集本能まるだしでかき集めた。ひょっとすれば、
ロウズウェルに墜落したUFOの残骸
やE・Tの死骸もここのどこかに隠されているのではないかと勘ぐりたくなるほどの貪欲な収集趣味である。
自然博物館にはいると円形広間で現代の最大陸上動物といわれるアフリカ森林奥地象の剥製が出迎えてくれる。恐竜やマンモスの化石もダイナミックでよかったが、私には宝石コーナーが一番興味を引いた。なかでも45カラットの、世界最大の青のダイヤモンドはホープ・ダイヤモンドとして有名である。最後の所有者であった女性のネックレスの細工に取付けられたままに妖しく光るダイヤモンドの青い光は男であっても魅惑される。現代の科学でこれらを人口合成して大量生産できないものかと、錬金術師のようなことを考えたくなった。それで金儲けをしようというのではない。宝石の希少価値を消滅させて、持てない者の悩みをなくしたいという共産主義者的正義感からである。
ワシントンはやはり春にくるべきであった。ポトマック河畔の3200本の桜は19112年に東京都から贈られたもので日米友好の象徴である。お返しに1915年、アメリカからハナミズキが贈られ日比谷公園に植樹された。私はそのいずれも見ていない。
ワシントンからポトマック川沿いに南へ25キロ行ったところがマウント・ヴァーノンでここにジョージ・ワシントンの私邸がある。三歳のときに移り住んで、妻マーサと生涯を過ごした家である。ポトマック川を一望できる高台に立派な屋敷と農園が広がっている。屋敷は博物館になっていて、なかはみなれた当時の調度品と部屋つくりであった。庭はコロニアル・イングリッシュ・ガーデンである。
かってどの農園にも奴隷を住まわせていた小屋があった。ジョージ・ワシントンもタバコ園の所有者として大勢の奴隷を使用していたのである。タバコ園の経営者たちは奴隷の女たちとの間に多くの私生児をつくった。ジョージ・ワシントンもある寒い日に奴隷小屋をおとずれ、その時ひいた風邪が原因で1799年、マーサにみとられながら67歳の天寿を全うしたのであった。
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フィラデルフィア
ペンシルヴァニア州最大の都市フィラデルフィアは北東部のボストンにあたる所だ。1790年から、1800年にワシントンに移るまでアメリカの首都であった。1640年、ここにスエーデンからの入植者が小さな部落を作った。後1682年、クエーカー教徒のウィリアム・ペンがイギリス国王の命を受けて植民地を開いてから本格的な発展を遂げる。1776年、東部13州が連合してジョージ・ワシントンを総司令官としてイギリスと戦い、ヨークタウンの決戦を最後に独立をかちとった。
トーマス・ジェファーソンの起草した独立宣言を読み上げた場所が、独立記念館として保存されている
州議会議事堂
である。今はひび割れた
「自由の鐘」
がそのとき歓喜のうちに打ち鳴らされた。独立国立歴史公園に当時の建物が集まっている。
通りの両側には50の星を描いたものと13個の星の輪が描かれた二種類の星条旗が家並の軒を飾っている。13個の星条旗をデザインして縫い上げたのはエリザベス・ロスというおばさんで、彼女の質素な二階建ての家も「ベッツイ・ロスの家」として保存されている。
初代財務長官、ハミルトンの建議で1797年
第一国立銀行
が完成した。コリント式の代理石円柱が配置されたネオ・クラシックの建物である。1811年完成の第二国立銀行の石柱はドーリア式のギリシャ建築である。仕事で毎日ニューヨーク連銀の世話になっている手前、この二つだけは個人的なしがらみで見ておこうと決めていた。
シューイルキル川の向こうにベンジャミン・フランクリンの創設したペンシルヴァニア大学がある。1740年の創立でアイヴィー・リーグのなかでも最初に医学部(1765年)とビジネス・スクール(1881年)が開設されたことで知られている。特にビジネス・スクールはウォートン・スクールと呼ばれ金融分野では憧れの的である。2000年のビジネススクールランキングではハーバードを抜いてNO.1に選ばれた。
ベンジャミン・フランクリンという人のよい天才肌のこの男性は、独立宣言や人権宣言の草案にあたって指導的役割を果したのであるが、既に老人で現役政治家としては歴史に名を残していない。むしろアイデアマンの科学者で、雷の日に凧をあげて雷が電気であることを発見し、避雷針を発明したことで有名である。
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ウィリアムズバーグ
1633年イギリス移民によってここに植民地が開かれた。当時のイギリス国王ウィリアム三世にちなんでウィリアムズバーグと名付けられた。1699年、ジェイムズタウンから政府機能がここに移ってから独立後1780年にリッチモンドに移るまでここがヴァージニアの州都であった。以来田舎町に落ちぶれていったこの町を、復興しようと言い出したのがロックフェラー財閥である。1930年代に大規模なプロジェクトがスタートした。今は先進首脳会議を主宰するほどの観光都市となっている。
イギリス植民地時代を復元した一角がコロニアル・ウィリアムズバーグとして、十八世紀の建物や風俗が保存されている。当時の衣装をつけた人々が歩いていたり、鍛冶屋やパン屋が店をひらいているのはマサチュウセッツの
オールド・スターブリッジ村
とそっくりである。オールド・スターブリッジ村は人工的にあとで作られた一種の公園であるが、ここはウィリアムズバーグの旧市街地区を指定区域にしたもので、道は舗装され外周は車も通る。
また、前者は村であるのに対しここは州都という当時のボストン、ニューポート、ニューヨークに匹敵する大都会であった。従ってオールド・スターブリッジ村にあるような広い牧場や農場はない。建物もモダンで豪華である。前者は十九世紀の農民の村で、ここは十八世紀の支配者の町という違いがある。にも拘わらず人の服装、家や内部の調度品、また職人の道具などを見ると十八世紀の都会のほうが十九世紀の田舎よりもはるかに進んでいたことが判る。そういう目で両方を比較して訪ねるとおもしろいであろう。
英国総督の住んでいた宮殿が圧巻であった。入口のホールの壁や天井に刀剣類や、ピストル、マスケット銃が権力を見せ付けるように展示されている。とくに天井の65挺のマスケット銃が剣の先を円の中心に集めて放射線状に並びつけてある幾何学的レイアウトは印象的であった。裏庭は果樹園とヨーロパ風の庭園である。秋の紅葉が地を埋め木々の葉が日に映えて明るかった。
5キロ東に「ブッシュ・ガーデンズ」があり明子の慰労のために寄っていくことにした。アンハウザー・ブッシュが経営する10のテーマパークの一つである。ここのテーマは「オールド・カントリー」でイギリス、フランス、イタリア、ドイツの四ヶ国の古い世界が詰め込まれている。古代ローマ遺蹟、中世の城、ダ・ヴィンチの発明の庭、グリム童話、シェイクスピア、ビッグ・ベン、ライン川下りなど、誰にも馴染みのあるイメージを適当に混ぜ合わせ、代表的な家並みに民族衣装を着た従業員がエスニック料理や飲み物を提供すれば手ごろな国際村になる。
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ジェイムズタウン
十七世紀初頭、新大陸をスペインとポルトガルに独占されていたイギリスは、アメリカに向けて行動を起こした。英国王ジェームズ一世の時である。ロンドンから、スーザン・コンスタント、ゴッドスピードそしてディスカヴァリーと命名された三隻の小船がテムズ川を下っていった。スポンサーはヴァージニア株式会社である。すでにその20年前英国軍人であったサー・ウォルター・ローリーがその付近の土地を探検していて時の英国女王エリザベスに因んで「ヴァージニア」と命名していたのである。植民地化による経済的成功を夢みるヴァージニア会社の投資家の期待を背負って、ジョン・スミス率いる104名の移民は1607年5月、ヴァージニアの大西洋岸の低湿地に上陸し、英国人最初の植民地を設立した。ピルグリム・ファーザーズが
プリマス
に上陸した時よりも13年も前のことである。
ジョン・スミス
が奥地を調査しているとき土地のインディアン酋長ポーハタンに捕らえられ、あわや殺されるところを気の優しい酋長の娘ポカホンタスに助けられた。
どこの入植地でも同じであったが当初の苦難は大変なもので、飢えと寒さ、病気が重なりその年の秋には既に人口は50人を切っていたという。その後の一年間で女性も含め新たに600人近くが英国から渡ってきたがその年の冬は格別に厳しく1609年の冬の人口はたった60人ほどであったといわれている。飢餓のために、ある男は妻を殺して塩漬けにして食べてしまった。これは現地で買った「ジェイムズタウン・ヨークタウン財団」発行の解説書に載っていたものであるから信用できる話である。
1612年ジョン・ロルフという若者がタバコの新しい栽培と燻製法を発見し英国人を喜ばせた。ヴァージニア会社の投資家にとっては、初めは金を発見して手短に儲けたい期待があった。しかし、ヴァージニアに金が出ないことがわかると、英国に輸入して高く売れる商品であれば何でもよくなった。
インディアンとの関係は、酋長ポーハタンをヴァージニア王にして懐柔策をとったが決定的な友好関係は築けなかった。他方、娘のポカホンタスは優しい少女だったばかりでなく利発で好奇心旺盛な女の子であったようである。頻繁にジェイムズタウンの植民地を訪れている間にキリスト教にも興味をもって洗礼を受けてしまった。1614年の春には父の反対を押しきって、タバコで成功した若者ジョン・ロルフと結婚し、レベッカ夫人として二人で英国に行き去ってしまう。酋長ポーハタンは娘の国際結婚にはさぞかし悩んだことであろう。それをきっかけに両者の関係は安定した。
ポカホンタスはディズニーのアニメ映画の主人公にもなって彼女の人気は今も健在である。
1619年タバコ栽培の飛躍的増加に供するため、20人のアフリカ奴隷がオランダ船でもたらされた。黒人奴隷制度の始まりである。1620年、本国のヴァージニア会社は、植民地の独身連中のために花嫁を船に満載して送り込んだ。これでようやくジェイムズタウンが落ち着くことになる。当時の入植した場所は今のジェイムズタウン・アイランドとよぶ出島のような所で、そこにはジョン・スミスと彼の命の恩人ポカホンタスのブロンズ像が立っている。
ジェイムズタウンを北のプリマスと比較する際、メイフラワーに乗ってきた人たちはジェイムズタウン入植者とは違って、宗教の迫害から逃れて新天地を求めてきた敬謙な信仰集団というイメージがある。しかし実際は、101人の乗客のうち明確な宗教的動機をいだいていたものはおよそ三分の一程度で、その他の70人は渡航企画の経済的採算を満たすために募集された前科者を含む多彩雑多な人間たちであった。その意味では、投資家の一攫千金の期待を担ってきた野心家集団であったジェイムズタウン入植者の連中と大差はない。そのなかにはイギリスを追い払われた犯罪者もいたようである。
イギリスが植民地を開くとき、そこから経済的利益を得ようとする他に、流刑地を確保したいとする目的もあった。アメリカが独立するまで13の植民地には多かれ少なかれそのような人物も送り込まれてきた。独立戦争でイギリスはその二つを失ってしまった。幸いにそのころオーストラリアのタスマニアや
シドニー
という恰好な代替地が見つかり、流刑者たちは南をめざすことになった。
ジェイムズタウンは1699年、行政府をウィリアムズバーグに移すまでヴァージニア植民地の首都的存在であった。1957年、植民地開設350周年を記念してフェスティバル・パークが完成した。公園内には柵で囲まれた砦、ポーハタン・インディアンの祭儀場など当時の建物が展示され、ジェイム川には原寸大に復元された三隻の船が浮かんでいる。一番大きなスーザン・コンスタントでも長さは23mで、最小のディスカバリーになるとその半分の11mで、自家用ボート並みの大きさであった。1607年5月、104名の最初の移民が三隻のボートに分かれてこの地に上陸したのであった。
17世紀初頭の家が一軒復元されていて、一人の若い女性が案内役をかって出た。頼もしい体格をした二人の男性が鹿の皮をなめしている。明子はそれがおもしろかったらしく、そばまで近寄って何やら話しかけていた。
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ヨークタウン
ウィリアムズバーグからジェイムズタウンと反対の方向、北に三マイル、コロニアル・パークウェイをドライブするとヨーク川のほとりに独立戦争最後の決戦場ヨークタウンがある。1775年4月、ボストン郊外レキシントンで始まった米英の戦いは1781年10月ヨークタウンでアメリカ・フランス連合軍の勝利に終わる。今は芝生に覆われた広い運動場のような空間に、青のペンキで防水処理されたフランス製大砲が数基おかれているだけであった。塹壕の跡や堤のような地面のうねりがあるのみで、ヨーク川から渡ってくる風にさらされて寒々とした風景の中に220年前の戦いの場面を想像するのは難しい。
日本にない表現に、三地点をとって「○○○・トライアングル」という言い方がある。ウィリアムズバーグ、ジェイムズタウン、ヨークタウンの三ヶ所を「ヒストリック・トライアングル」と呼ぶ。南スペインにもアラブ文化を偲ぶ、
グラナダ・コルドバ・セヴィリアというヒストリック・トライアングル
がある。大西洋のバミューダ島、プエルトリコ島、フロリダ半島を結ぶ三角形の海域を
バミューダ・トライアングル
といい、幽霊船が出没する現代の世界七不思議の舞台である。日本でいえば奈良・大阪・京都が「古都トライアングル」で、日野・近江八幡・五個荘は「近江商人トライアングル」であろうか。三角形を活用すると、「日本三大xx」と違って、視覚的に位置関係が把握できて覚え易い。
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アメリカ東部の旅 その2
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ウィリアムズバーグ
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